【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第四章「白村江は朱に染まる」 前編 8
紅葉が赤いのは夕日のせいではない。
しかし、客間が赤いのは夕日のせいである。
「お久しぶりです、狭井殿」
「いや、本当に。もう15年近くになりますかな? お互い、年を取りました」
狭井檳榔連(さいのあじまさのむらじ)は物部氏の傍系である。
「ところで、こんな田舎に如何用ですか?」
「飛鳥からの命令でな。直ちに、兵を整えて宮に参上せよとのことだ」
陰で聞いていた安孫子郎女の不安は的中した。
「如何いうことですか? 私は、自ら飛鳥の役職を捨てた身。それをいまさら、兵を引き連れて戻れとは?」
「うむ、実はな……」
檳榔は周囲を見回した。
別段、聞かれてまずい話ではなかったのだが、彼の声は小さくなった。
「百済の急変は知っておるな?」
知っているどころではない。
半島出身者が多い朴市では、その話で持ち切りである。
更に、朴市の住人からは、未だ百済救援に動かない中央に対して非難の声が上がっていた。
中には、朴市の住人だけで百済救援に赴こうと提案する者までいた。
「この度、百済から正式の救援要請があってな、飛鳥もそれを受け、豊璋(ほうしょう)様を百済の次期王として送り返すことになったのだが、その護衛軍の将軍として、私とそなたが指名されたのだ」
護衛…………………そう言って、また利用されるのではないだろうか?
「中大兄のご命令ですか?」
「私は、中大兄様から承ったが、貴殿を推挙したのは内臣殿だ」
田来津は、古人皇子の件で詰め寄られて困惑する中臣鎌子の姿を思い出していた。
「なぜ、内臣殿が私を?」
「それは、飛鳥に行けば分かるのではないか」
安孫子郎女は、小倉がいまにも泣き出しそうな顔をして、こっちを見ているのに気が付いた。
どうやら、安孫子郎女が不安げな顔していたのが原因のようだ。
彼女は、小倉を抱き上げる。
「ごめんね、何でもないのよ。さあ、お客様のお酒の用意をしないとね」
小倉を抱いたまま、奥へと入って行った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?