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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第二章「槻の木の下で」 前編 15

 翌朝、鎌子は重い頭を抱えて屋敷へと帰って来た。

 そして、また昼近くまで夜具に潜るつもりでいた。

「昨日、お出かけになった後、飛鳥の蘇我様から荷物が届きました」

 と知らせたのは、出迎えに出た従者の一人であった。

「荷物? なんだ?」

 鎌子は酒臭い息で訊き返す。

「木簡です」

 鎌子は、寝室の戸を開けて驚いた。

 そこには、木簡が堆く積まれていた。

 それは、蘇我家にあった全ての木簡に違いない。

 彼は、その場に座り込んでしまった。

 蘇我殿は、なぜ木簡を寄越したのだろう?

 彼は、二日酔いの頭で考えた。

 そして、文机に一通の書状が置いてあるのに気付き、彼はそれを開いて読んだ。

 その書状は、蘇我入鹿からのものだった。

『三嶋での生活は如何でしょうか?

 急な出立でしたので、十分な見送りもできませんでした。

 お許しください。

 さて、勉強の方は進んでいらっしゃいますでしょうか?

 私は、あなたとともに講読ができなくなって、あまり勉強が捗りません。

 やはり、友の力は凄いものですね。

 中臣殿は大丈夫だとは思いますが、三嶋では良い書物も手に入りにくいでしょうから、我が家にあった木簡を送らせて頂きました。

 これは、私にはもう必要のないものですので、遠慮なくお使いください。

 邪魔になれば、送り返して頂いても結構です。

 論語に『朋あり、遠方より来たる、亦楽しからずや』の一節があります。

 あなたが、飛鳥に戻られ、ともに机を並べる日を楽しみにしております。

 最後ですが、お体に気を付けて。

 お酒も程ほどに』

 書状の墨が、涙で滲んだ。

 彼は、それを丁寧に畳むと、傍らに置き、木簡を一つ、文机の上に置いた。そして、それを解き始めた。


 赤根売は、変わらず酒場で客を取っていた。あれから一ヶ月近く、彼女の下に通う鎌子の姿はない。

「最近、あの人、姿を見せへんやん。他の女に変えたんやないの?」

 仲間の女たちは冷やかした。

「そうかもね。関係ないわ、ただの客やし」

 赤根売はそう言ってかわした。

 彼女は嬉しかった。

 —— もう来なくても大丈夫なのね。立ち直ることができて。

 しかし、彼が来ないのが寂しくもあった。

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