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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第二章「槻の木の下で」 中編 3

 中臣鎌子が、飛鳥に呼び戻されたのは11月になってからで、呼び戻したのは蘇我入鹿ではなく、彼の異母兄、中臣鹽屋枚夫であった。

 飛鳥に呼び戻された鎌子は、逆に飛鳥から飛び立とうとしている枚夫の屋敷を訪れた。

 彼は、臨終の床にいたのだ。

 田村大王の崩御に伴い、前事奏官の職は叔父の中臣國子から枚夫に引き継がれていたが、その枚夫が病の床に伏したために、彼がその後継に鎌子を指名したのであった。

「鎌子か?」

 軋む床に、枚夫は聞いた。

「ただいま戻りました」

 鎌子は、座して頭を下げた。

 枚夫は、もう目も見えないようだ。

「鎌子、私はまもなく父上の下へ行く。たがその前に、お前にどうしても述べておかなければならないことがある」

 まもなく、夕闇が暗闇に変わる頃合だ。

「お前は、私に蟠りを持っているようだが、いまはそのような時ではない。いまこそ、中臣家の力を結集する時なのだ。知ってのとおり、中臣や大伴は、大王の家臣団として使えてきた家柄。我らあっての大王なのだ。しかし、ここ最近は、蘇我氏が大王を独占し、いいように操ってきた。我々にとって、これは非常に脅威なことだったのだ。そのため、我が中臣は、大伴と力を合わせ、蘇我の力を弱めてきたのだ」

 鎌子は、枚夫の言っていることを理解しかねた。

 それでも、枚夫は続ける。

「60数年前、物部と蘇我を争わせたのは我々だ。物部が、我々を裏切って蘇我氏に付いたので、衝突させてやったのだ。蘇我が白瀬部(はせべ)大王を暗殺したのも、中臣の姦計に引っ掛かったからだ」

 鎌子は信じられなかった。

 さらに、信じられない告白は続く。

「田村皇子の即位の際の境部(さかいべ)の反乱も、父が大鳥殿と仕組んだことだ。そして、今回の上宮王家の襲撃に関しても、私が、軽皇子、大鳥殿、馬飼殿、そして、巨勢殿と仕組んだことだ」

「まさか、では蘇我殿の仕業ではなかったのですか?」

「蘇我潰しのために、ヤツらには上宮王家襲撃の罪を全て被ってもらったのだ」

 鎌子は唖然とした。

 入鹿の嫌疑は晴れたが、今度は、我が家の罪が明らかになろうとは。

「なぜです、なぜそんなこと?」

「それが、我が中臣家のためなのだ」

「何が我が家のためですか? そのために、多くの血が流されたのですよ」

「所詮は蘇我の血だ。悲しむほどのものでない。良いか、鎌子、蘇我は、この国に吸い付く蛭も同じ。うまい血だけ吸い、暴利を貪る。他の氏族のことなど考えておらぬ。故に、我ら飛鳥の臣下は結束し立ち上がったのだ」

 闇が辺りを包む。

 最早、鎌子にも枚夫の顔は見えない。

「鎌子よ、私は、お前が中臣の名を継ぐため、この話をしたのだ。最早、お前は中臣の名からは逃れられん。鎌子、中臣の名を世に知らしめよ。それが我が家の、そして父上の願いでもある」

 父の願い………………鎌子の脳裏に、棺に横たわる御食子の小さい姿が浮かんだ。

 父は、その願いを果たさず死んだ。

 どんな願いであれ、相当悔いの残ることであったろう。

 それでも、鎌子は訊いた。

「私に、蘇我殿を裏切れと言うのですか?」

「もともと中臣と蘇我は水と油。家柄が違う。それに、蘇我包囲網は既になっている」

「蘇我包囲網……」

「そう、飛鳥の重臣は、全て我らに付いた。早ければ、来年にも蘇我家は滅びよう」

 鎌子は堪らず立ち上がった。

 床が軋む。

「鎌子、もし、お前が我らを裏切り蘇我に付くならば、中臣の名を捨てろ。その時は、敵として我が中臣はお前を討つことになるだろう。だが、中臣の名を継ぐのなら、お前が……、林大臣を殺せ!」

 鎌子には、言い返す言葉がなかった。

 彼は、そのまま部屋を出て行った。

 枚夫は、その足音をいつまでも聞いていた。

 まもなく、枚夫は父 —— 御食子の下に旅立った。

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