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【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 その四 おみねの一件始末 12

「ええ、それなら頂きました」

 と、吉兵衛は怪訝そうな顔をして答えた、ふさふさの眉毛まで真っ白な、60を越えてそうな爺さんである。加賀屋の手代の証言とはだいぶ違う。

「あの……、それが何か?」

「いや、大したことではないんですが……」、人違いかと思いながらも、尋ねてみた、「ところで、その扇子はどうされました。いまも持ってらっしゃりますか」

「それなら、手代の金十郎にやりましたが」

「金十郎!」、惣太郎は、思わず素っ頓狂な声をあげてしまった、「お宅には、金十郎という手代がおいでですか」

「はあ、おりますが……、お話しになりますか」

「是非に」と、惣太郎は身を乗り出す。

 吉兵衛は聊か驚きながらも、「おい、金十郎、金十郎」

 奥から出てきたのは、確かにどこにでもいそうな、極普通の青年である。

「このお役人さまが、お前に話があるというんだが、お前、何かしたんじゃないだろうね」

「えっ……、いえ、私は何も」と、金十郎は細い目を見開き、顔を真っ青にして、慌てて首を振る。

「本当かい、もしこの和泉屋の名を汚すことをしたんなら、承知しないからね」

「と、とんでもありませんよ、本当に私は何も……」

 まあまあと惣太郎が間に入り、金十郎を連れて表に出た。

「あの……、私にお話しってなんでしょう」

 相当警戒しているようだ。

 まあ、寺役人が来るなんて尋常ではないだろうから。

「ちょっと、おみねのことについて訊きたいんだが……」

 金十郎は一瞬誰のことかと顔を顰めたが、

「ああ、おゆりちゃんですね」

 と、惣太郎の知らない名を出した。

「あっ、そうか、ご存じないんですね。おみねの本当の名は、おゆりって言うんですよ」

 なんだか頭が混乱してきた。

「いや、私もはじめは分からなかったんですよね。あそこには、よく遊びに行ってたんですが、おゆりちゃんに会ったのは、あの日がはじめてでした。あっ、このこと、旦那さまには内緒にしててくださいね。お願いします、旦那さん、酒は好きだけど、女遊びは大嫌いな方なんですよ」

 金十郎は手を合わせて頼み込む。

「言いませんよ、そんなこと。それより、話の続きを」

「はい、えっと……、はじめは私も気がつかなかったんですよ。でも、なんの拍子か生まれの話が出て、俺が下総だって言ったら、あたしも同じだってなって、そうか、俺は柴崎村だって言ったら、あれ、あたしも柴崎だって驚いて、で、よくよく見たら、あれ、隣のおゆりちゃんじゃねぇかい、うそ、金ちゃんかいってなったんですよ」

「おゆりっていうのは、その……、どういう娘なんです」

「義助(ぎすけ)さんっていう百姓の娘さんです。ですが、この義助さん、あまり評判が良くなくって、あまり働かないし、酒は飲むし、博打もやるしで、お陰でおゆりちゃんのおっかさんは、ずっと働きっぱなしで、ときに殴られもするもんだから、とうとう家を出て、寺に駆け込んだんですよ。あれは、おゆりちゃんがまだふたつぐらいのときかな。私が10歳の頃ですから」

「その寺って、もしかして満徳寺ですか」

「そうそう、その寺に駆け込んで離縁となったんですが、おゆりちゃんは義助さんのところに残ることになんたんです。でも、奥さんが出て行ってすぐに、ころっと逝ちゃいましたね。酒が祟ったなんて、大人は噂してましたよ。それからおゆりちゃんは親戚に引きとられたんです。それが、うちの隣の弥平(やへい)さんで、でも可哀想におゆりちゃん、4つぐらいから、弥平さんの奥さんに扱き使われてましたよ。そりゃ、もう見てるこっちが泣いてしまいそうになるぐらい酷い扱いで、見かねてよく助けてあげたものです。しかし、おゆりちゃんは強かったな、あれだけいびられても、涙ひとつ見せなかったもんな。でもある日です、おゆりちゃんが10歳の頃かな、不意に姿を見かけなくなったんですよ」

「そのおゆりは、どこに行ったんですか」

「弥平さんの話だと、本当の母親のところに引きとられたって言ってましたよ。私は、てっきり幸せになったんだろうなって思ってたんですが、それが、あの店でばたりでしょう。しかも、相当苦労してるみたいだったんで、それで私、訊いたんですよ、お袋さんとはどうなんだいって。そしたら、おゆりちゃん、生みのおっかさんとは一度も会ったことがないって言うじゃないですか。えっ、そうなの、俺はてっきり満徳寺に引きとられたのかと思ってたよって言ったんですよ。そしたら……」

「ちょ、ちょっと待ってください」、慌てて止めた、「い、いま、何て。満徳寺に引きとられたって」

「ええ、いつだったか、うちのお袋と弥平さんの奥さんが話しているのを聞いたんです、おゆりちゃんのおっかさんは、満徳寺の役人と一緒になったって」

「そ、その役人の名は」

「いや、そこまでは」、金十郎は首を振る、「ただ、おゆりちゃんの母親の名は分かりますよ、えっと……、確かおなえさんです」

 惣太郎は、重たい何かで頭を打たれたような衝撃を受けた。

「それをおゆりちゃんにも言ったら、すごい驚いてましてね。でも帰り際に、良い事を教えてくれたありがとうなんて言われたんですけどね」

 金十郎は、そのときのことを思い出して、ひとりにやついている。

 惣太郎は、頭がくらくらして、ともすれば倒れてしまいそうだ。

「えっと、つまり……、おみねはおゆりで、おゆりの母親はおなえで、私の母は波江(なえ)で、つまり……、つまり……」

 おみねと惣太郎は………………

「ああ、そうそう、そう言えば、おなみさんが義助さんのところから出て行ったとき、お腹に子どもがいたって、お袋が言ってたな」

 金十郎の言葉に、惣太郎の鼓動が早くなる。

 おなえと義助の子、それはつまり………………私は………………

「お役人さま、大丈夫ですか」

 金十郎が、惣太郎の顔を覗きこむ。

「顔が真っ青ですが」

「いえ、大丈夫です。それで、おみね……いえ、おゆりとはその後は」

 彼は首を振った。

「もう一度会いに行ったのですが、満徳寺へ行ったとかで、ああ、やっぱりお袋さんに会いにいったのだなって思って。あれ、そういえば、お役人さん、満徳寺の方って言いましたよね。じゃあ、行きませんでした、おゆりちゃんが」

 来た。

 おみねとして。

 旦那に酷い仕打ちを受けていると嘘をついて。

 なぜ、母親に ―― 惣太郎の母波江に会いに来たのなら、素性を隠す必要があるのか。

 なぜ、娘だと名乗らないのか。

『たっぷりと目にもの見せてやるんだって』

 おきくの言葉が、夕暮れに響き渡る鐘の音のように、頭の中に木霊した。

「くそっ、そういうことか!」

「えっ、どうしたんですか、お役人さん、お役人さん!」

 惣太郎は走った。

 奉行所に戻っている暇はない。

 一刻でも早く、満徳寺に帰らなければ。

 間に合ってくれ。

 そして、早まらないでくれ、姉上………………と、惣太郎はどんどん乾いていく口の中で、何度も呟いた。

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