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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第四章「白村江は朱に染まる」 前編 10

 これに慌てた義慈王は、将軍堦伯(かいはく)を派遣、彼は5000の兵を率いて、黄山之原(こうざんのはら)(中清南道論山郡連山)で新羅軍と激突した。

 堦伯は、進撃する前に百済滅亡を悟ったのか、

『一国で、唐と新羅の大軍に当たるのである。この国の未来の先行きは分からない。仮に滅びて、妻子が敵の手に落ち、辱めを受けるよりは、堂々と死ぬほうがましであろう』

 と、家族を殺害して、戦いに臨んだ。

 7月9日、新羅軍は不撤退の覚悟の堦伯軍と四度交戦したが、その度に敗走した。

 そして、5度目にしてようやく百済軍を破るのだが、その裏には2人の少年の死があった。

 1人目の少年は、新羅軍の将軍欽純(きんじゅん)の息子、盤屈(ばんくつ)である。

 欽純は5度目の戦さに臨み、盤屈に対し、

『臣は忠誠を尽くすもの、子は孝誠を尽くすものだ。いまここで、お前が命を投げ出して戦えば、忠孝の2つを全うすることができよう』

 と、激をいれた。

 盤屈もこれに、

『謹んで命に従います』

 と答えて、戦場で華々しい最後を遂げたという。

 もう1人の少年は、新羅軍の左将軍品目(ひんじつ)の息子、官状(かんじょう)である。

 品目は、官状を馬の前に立たせると、諸将に向かって

『我が息子は年16なれど、甚だ勇敢だ。お前は、今日の戦さで、三軍の標的となるか?』

 と訊いた。

 息子も『はい』と答えて、敵陣に赴いくが、捉えられて堦伯の下に引き出される。

 この時堦伯は、官状が年若いこととその勇敢さに免じて、そのまま返してやるが、官状は父に、

『敵陣に入りながらも、敵の首も、旗も奪えなかったのは、死を恐れたからではありません』

 と、再び馬に乗って、敵陣深くまで斬り進んだ。

 奮戦むなしく官状は再び捕らえられ、堦伯の前に引き出されるが、流石の堦伯も、今度ばかりは官状の首を刎ねるしかなかった。

 堦伯は官状の首を馬に括りつけて、品目のところに返す。

 これを見た品目は、息子の首を抱くと、

『息子の顔はさながら生きているようだ。王のために死ねるとは何と幸いであろうか』

 と言って、新羅の兵を鼓舞させたのである。

 官状の死に奮起した新羅兵の活躍は目覚しく、ついに堦伯は力尽き、百済軍は全滅した。

 因みに堦伯は、捕縛された官状を見て、『新羅は、子供までこのように勇敢に戦うのだ、まして大人はどうであろう。新羅には敵わない』と嘆いたと伝えられている。

 百済軍が、黄山之原で新羅軍に破れた同じ日に、伎伐浦(ぎばつほ)(錦江)でも百済軍が唐軍に破れるとうい事態が発生した。

 これにより、百済は西岸から唐軍、東道から新羅軍の進軍を許し、孤立無援の状態となる。

 7月12日、唐軍と新羅軍が合流し、処夫里(しょふり)之原に進軍して、王城を完全に包囲した。

 この時になって初めて、義慈王は、

『悔しいことだ。興首の言葉を信じなかったために、こうなった』

 と後悔したという。

 7月13日深夜、義慈王は左右の臣を率いて、熊津(ゆうしん)城に逃亡、残された義慈王の息子、隆と家臣たちは城を出て降服した。

 その5日後の7月18日、熊津城に立て籠もっていた義慈王も太子孝と城を降り、唐・新羅軍に降服した。

 ―― ここに百済は滅亡する。

 その後、義慈王は、太子孝・王子泰・隆・演及び大臣将軍など80名の臣下と1万2807名の百姓とともに唐に護送され、彼の地で客死する。

 主を失った百済の地を、新しい主である唐軍がその占領下に置いた。

 唐軍は、百済に熊津・馬韓・東明・金漣・徳安の五都督府を設置して、各州・県を支配下に入れた。

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