【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第三章「皇女たちの憂鬱」 後編 22
斑鳩寺には、多くの百済僧が西海を渡って来ていた。
寺主である入師も百済僧であるし、寺司の聞師も百済僧である。
その縁あってか、法隆寺の周辺は、いつの間にか百済からの渡来人が多く住みついていた。
そんな百済の人々を驚愕させる知らせが齎されたのは、奴長の眞成たちが今年は野分が思ったより少ないなと話している頃であった。
その噂は、奴婢の間にもすぐに広がった。
「聞いたか? 百済が滅びたらしいぞ」
「ほんまか? 百済がなくなったんか?」
「ああ、これから大変やで。百済の人間が多く押し掛けて来るで」
「何でや?」
「飛鳥と百済は、同盟関係にあるらしいからな。戦さに破れた貴人が、どっと押し寄せて来るで」
「怖いのぉ~。しかし、百済の貴人だけか? 農民は来のか?」
「来れる訳ないやろ。貴人なんちゅうのはな、いつもは農民を扱使って、稲を絞れるだけ絞り取って、戦時になったら兵士として徴用して、自分たちの代わりに戦わせるけど、いざとなったら、農民を見捨てて行くような連中だからの。何処の国も同じじゃて。」
「全く、貴人ちゅうのは、何処までも狡賢い連中よの」
「そやけど、百済が滅びたっちゅうことは、この国も、いつ滅びるか分からんちゅうことやの。怖い、怖い」
と奴婢たちは噂し合った。
弟成と言えば、そんな立ち話をする奴婢たちの間を、怖い顔をして走り抜けて行った。
ここ2、3日、身重の稲女の体調が芳しくなかったのだが、この日の昼前に突然倒れて、そのまま破水が始まったらしいのだ。
お腹の中の子が、この世に生を受けるには3ヶ月も早かった。
弟成はその知らせを聞いて、厩から飛んで来たのだ。
奴婢長屋の傍には、小さな産屋が立てられていた。
弟成は、産屋の前に佇む雪女を見つけた。
「姉さん! 稲女は? 稲女は、大丈夫なんか?」
彼は、そのまま産屋に入って行きそうな勢いである。
「弟成、あかん! 入ったらあかんって! 稲女は大丈夫やから!」
「稲女は……、お腹の子は? 俺の子は?」
雪女の目に、見る見るうちに涙が溜まっていった。
稲女は、産屋の真ん中に寝かされていた。
彼女は汗びっしょりだ。
しかしそれも気にせず、泣かない我が子の頭を撫でてやっていた。
その子は、本当に、本当に小さい子だった。
それを見守る黒女たちは、ぐっと涙を堪えていた。
ただ、数人の鼻を啜り上げる音だけが産屋に響き渡る。
「可愛い子やね。よく生まれて来たね」
稲女は、その子に話しかける。
だが、その子は泣かない。
「あなたの名前は、もう決まってるねん。三成って言うねん。ええ名前やろ、良かったな」
稲女は、泣かない子に、なおも話し掛ける。
「見て、お母さん、三成が笑ったわ。ねえ、見たやろ」
黒女は、堪えきれずに泣き出した。
「見てみ、お母さんが嬉し泣きしてはるわ。あなたが生まれて来て嬉しいって」
それでも稲女は、かの子の頭を撫で続けた。
産屋の外では、慟哭する雪女とただ立ち尽くす弟成がいた ―― そう、彼には立ち尽くすことしかできなかった。
それから1ヵ月後、墓穴に横たわる稲女と小さな三成の姿があった。
彼女は、あれからずっと、三成を放さず、開かぬ口に張った乳房をあてがった。
だが、彼女の乳は小さな三成のお腹を満たすことはなく、ただ彼女の足下を濡らした。
弟成は、彼女に何度も現実を言い聞かせようとしたのだが、その度に、三成を抱いて微笑む彼女を見て口を閉じざるを得なかったのである。
そうこうするうちに、今度は稲女の体が衰弱していった。
あれやこれやと手を尽くすのだが、最後は、彼の両腕の中で静かに息を引き取った。
その時の三成を抱いて幸せそうな彼女の笑顔を、弟成は忘れることはできなかった。
弟成は、横たわる2人に、優しく、優しく土を掛けてやる。
眠る稲女の顔に、雫が零れる。
もう1つ……
そして、もう1つ……
それは、徐々に激しくなっていく。
―― 雨だ!
弟成は、空を見上げる。
その顔も、濡れてゆく。
そして、彼の頬に一筋の流れを作った。
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