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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第四章「白村江は朱に染まる」 中編 6

 避城(全羅北道金堤)は、確かに田畑には優れた土地であった。

 畝を歩く朴市秦田来津には、何処となく懐かしい風景である。

 ―― なるほど、朴市の田園風景に似ているな。

 彼は、安孫子郎女や小倉のことを思い出していた。

 ―― 安孫子郎女は、寂しさで枕を濡らしていないだろうか?

    小倉は、母親の手を焼かせていないだろうか?

 そんなことばかりが頭を過ぎった。

 しばらく故郷を懐かしみながら歩いていると、前方の木立に佇む一人の女性が見えた ―― 豊璋王の倭人妻、安媛のようだ。

 彼には、木立に佇む安媛の姿と紅葉の木の下で佇む安孫子郎女の姿が重なって見えた。

 不躾と思いながらも、なぜか彼女に話し掛けたい誘惑にかられ、彼女の傍まで近寄った。

 安媛も、田来津に気が付いたようだ。

 そっと会釈をした。

「あなた、王の護衛の方ですね?」

 話し掛けてきたのは、安媛の方からであった。

「はい、秦田来津です」

 田来津も会釈をした。

「かような所に従者も付けず、お一人とは。城の者が心配しますよ」

「心配なんて……、倭人の娘を心配するような奇特な人はいませんわ」

 安媛の声は寂しそうであった。

「はあ?」

「いえ、こちらの話です。城の中は息苦しいので、侍女の目を盗んで抜け出して来たのですよ」

 安媛は田来津に笑顔を見せた ―― その笑顔は可愛い。

「そうでしたか」

 田来津にはその笑顔が眩しすぎて、目を逸らした。

「でも、ここに来て気分も良くなりました。山城だと、気分が滅入ってしまいましたけど、ここは飛鳥の田畑に似ていて、懐かしくて大分気持ちが楽になりましたわ」

「そうですね、私もこの風景を見ていたら、故郷のことを思い出してしまいましたよ」

「故郷? 秦殿の故郷は何処なのですか?」

「私の故郷は、近江の朴市です。こんな風に、周りは田んぼだらけですよ」

「近江というと、あの大きな湖のある?」

「ええ、大きいですよ。海と見間違うぐらい。私は、海よりも、近江の方が好きですね。風も、水も柔らかい」

「そうですか、一度見てみたいわ。私、飛鳥から一度も出たことがなかったから。それなのに、行き成り海を渡ってこんな所まで……」

 安媛は目を伏せた。

 ―― そうか、この人は訳も分からず、この百済の地まで連れて来られたのだ。

 男でさえ望郷の念に駆られるというのに、親兄弟と離れ、異国の地に連れて来られた女の悲しみとは如何ほどであろうか?

 田来津は、安媛の横顔を見ながらそう思った。

「如何でしょう、百済復興がなった暁には、王に国帰りをお願いしてみては? もし、倭国に戻られたなら、その時は是非、近江にいらっしゃってください」

 田来津は、彼女を慰めるつもりで言った。

 が、それは叶わぬ夢だろうということも分かっていた。

 しかし、安媛の目は輝いていた。

「そうですね、きっと許して下さいますわよね。その時は、あなたが近江を案内して下さいますか?」

「もちろん」

「ありがとう。嘘でも、そう言っていただくと嬉しいわ」

 安媛も、叶わぬ夢だと分かっている。

 青い芽を付け出した枝が風に揺れる。

 まだ風は冷たい。

 息吹いた芽が、萎んでしまいそうだ。

 安媛の後れ毛が風に揺れる。

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