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【小説】『鰤大根』 5

 その幸せを破壊する女が現れた。

 あの子は、なぜ今頃、目の前に現れたのだろう? 子を捨てた親への復讐だろうか? 幸せな家族を壊すためだろうか?

 守らなくてはならない。目の前にある幸せを守らなくてはならない。過去の辛い遺物よりも、目の前に横たわる不器用な人生を大切にしなければならない。

 あの子に、この幸せを壊させはしない。

 千鶴は、幸せを包み込む染みだらけの天井を見詰めた。天井板一枚を挟んで、成美が寝ている。

 同じ屋根の下で、実の娘と一緒に寝ている。普通の家族なら当たり前のことであるが、千鶴にとっては捨てたはずの実の娘と一つ屋根の下で寝られることが夢のようであり、苦痛でもあった。

 二人を隔てるのは、くすんだ天井だけである。その板の厚さは数センチにも満たないだろう。が、その数センチがあまりのも厚すぎる。それが、千鶴と成美の離れていた時間の厚さだろう。

 二人を隔てる時間の厚さの下で、千鶴は夫と幸せに休んでいる。上では、成美が一人で寝ている。

 あの子は、一人では寝られない子だった。

 寝付いたと思って体を起こそうとすると、黒目勝ちの瞳に涙を一杯に溜めて見上げてきた。

 成美の絹のような手を摩ってやりながら、もう一度寝かしつける。静かな寝息が聞こえてくると、そっと床を抜け出す。と、成美はセンサーでも付いているように、パチリと円らな目を開けた。

 それを数度繰り返して、ようやく夜の仕事に出た。

 大輝と別れた夜も、成美は何度も目を覚ました。母親がいなくなるということに気が付いていたのかもしれない。

 母親がいなくなって、あの子は寝るのをむずかり、大輝に酷い目にあわされなかっただろうか。お祖母ちゃんやお祖父ちゃんに迷惑をかけなかっただろうか。

 あの寝付きの悪さは、もう直っているのだろうか。

 耳を澄ませる。

 寄せる波の音は、返す波の音よりも大きい。

 千鶴は可笑しかった。

 もうそんな年でもない。いい大人だ。添い寝をしてくれるいい人だってできただろう。

 素敵な女性になっていた。人生を感じさせないような明るい子に育っていた。あの子の目尻に寄った皺を見たとき、幸せなのだと思った。

 いや、そう思わせるように彼女はしているのかもしれない。今まで背負ってきた負の記憶を面に出さないように、苦労も知らないような笑顔を作っているのかもしれない。幾分深くなった目尻の皺は、作り笑顔の証拠だろう。

 あの子も苦労してきたのだ。

 娘を捨てた母親には分からないような苦労をしてきたのだ。

 母のいない運動会。母のいない家庭訪問。母のいない参観日。

 初恋の相談もしたかっただろう。女になったときの不安もあっただろう。結婚するときに負い目になっただろう。

 それなのに、自分はこんなところで幸せに暮らしていた。

 千鶴は静かに泣いた。

 隣の優しい男に気付かれぬように、声を押し殺して泣いた。

 母親と名乗れない。娘を捨てた女が自分だけ幸せになって、どうして母ですと名乗ることができようか。

 娘の幸せを祈るのが母。

 自分が幸せになることだけを考えて、娘に何もしてやれなかった。娘を不幸にしただけだった。

 このまま別れよう。母と名乗らず、このまま別れよう。素知らぬ顔で、娘を送り出そう。彼女の幸せを信じて、黙って見送ろう。

 それが、あの子にとって一番いいのだ。

 千鶴の頬を、温かい雫が流れ落ちた。

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