【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 前編 8
大海人皇子は、舒明(じょめい)天皇と皇極(こうぎょく)・斉明(さいめい)天皇の次男で、中大兄と間人大王の弟にあたる。
大海人は、よく「おおあま」と読まれるが、正しくは「おほしあま」である ―― 「大海」とも書く。
その名前は、養育にあった凡海連(おほしあまのむらじ)に由来するらしい。
凡海氏は、『新撰姓氏録(しんせんせいしろく)』によると海神綿積命(かたつみのみこと)の息子 ―― 穂高見命(ほたかみのみこと)を先祖に持つ一族だ。
この一族は、海神綿積命を祖先に持つとおり、海部(あま)を統括した一族で、摂津・周防・長門・尾張と全国各地に分布していた。
因みに、海神綿積命を先祖に持つ一族には、やはり海と関係がある安曇氏や海犬養(あまのいぬかい)氏がいる。
『日本書紀』天武(てんむ)紀上に、大海人皇子は、生まれながらにして人より優れたところがあり、成長してからも勇敢で、武徳に優れ、天文(てんもん)や遁甲(とんこう)(妖術)を修めたとある。
『日本書紀』は、天武天皇によって編纂命令が出されたので、この記述をそのまま信じる訳にはいかないが、百歩譲っても壬申の乱前後の身のこなし方や人心掌握術には目を見張るものがある。
反面、彼の出自には謎が多い。
一番の謎は、その年齢である。
彼が亡くなったのは、朱鳥(あかみとり)元(686)年のことである。
『日本書紀』には、亡くなった時の年齢は記載されていないが、『一代要記(いちだいようき)』(弘安年間(1278~1287)頃)と『本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんしょううんろく)』(応永年間(1394~1428)頃)には、65歳で亡くなったと記載されている。
兄の中大兄は、『日本書紀』に舒明天皇の崩御時に16歳と記載されているので、大海人皇子が『一代要記』や『本朝皇胤紹運録』の年齢で遡ると、20歳になってしまう。
つまり、大海人皇子の方が年上となるのである。
そのため、『一代要記』や『本朝皇胤紹運録』の65歳は、56歳の間違いであるという説や、大海人皇子は中大兄の兄で皇極・斉明天皇が舒明天皇と一緒になる前に、高向王(たかむくのおおきみ)との間に生んだ漢皇子(あやのみこ)が大海人皇子だという説がある。
中には、中大兄と大海人皇子は兄弟ではなく、大海人皇子から孝謙(こうけんけん)・称徳(しょうとく)天皇までは、現天皇家と系統が違うと主張する説まである。
ただ、『日本書紀』は8世紀の書物で、『一代要記』は13世紀、『本朝皇胤紹運録』は15世紀の書物であるため、成立年代の違う資料を比較すること自体に問題があると思われるので、中大兄と大海人皇子は兄弟なのだろう。
因みに、『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』(北畠親房、延元4(1339)年頃)では大海人皇子は73歳崩御になっている。
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