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シャーベッツの曲はなぜ演るたびに良くなるのか?


シャーベッツの25周年ライブのツアーファイナルに行ってきた
ニューアルバムの曲を中心に演奏されるプロモーションツアーとは違い、今回はシャーベッツ25年の歴史の中からの珠玉の選曲だ
どの曲もライブの最後のような盛り上がりを見せたが、その中で明らかに一曲だけトーンが違う曲があった

新曲のbaby car
この曲はこのライブで初めて聴いた
福士さんのキーボードが奏でる優しい和音に静かなギターのアルペジオが加わり、ベンジーが優しい声でこう歌う
‘Baby car 僕はbaby’

素晴らしい曲だった
3分足らずで、生まれてから人生の後半となった今のことまでが、自分の中で自然に繋がった
こんな体験をさせてくれるのはベンジーだけだ
だがこの曲は、他のこれまでに何度も演った曲とは違っていた
何というか、自分の足ではどこにも歩いていない子供のような感じがした
曲に対する解釈がなく、曲をまっさらに演奏したという感じだった
そしてこの曲が入ることで、この25周年ライブの価値を改めて感じた

いわゆるクラシック音楽と呼ばれる100年以上前に誰かが作った曲は、他の無数の誰かによって無数に演奏されてきた
その曲を演奏するのは例えば陸上競技における種目のようになっていて、100メートルの最速を決めるために100メートルという種目があるように、マーラーの五番は誰が一番上手いのかを競うために、演奏家はマーラーの五番を演奏する
100メートルというカテゴリーを定めることで、それに無数の人が挑戦し、100メートルのタイムが良くなってくる
マーラーの五番というカテゴリーがあることで、それに無数の演奏家が挑戦し、マーラーの五番が素晴らしくなっていく

おそらくベンジーの曲に対するスタンスはそうのようなものではないかと思った
曲を作るというのは、新たに種目を作るようなもので、それに何度もトライすることで記録が上がっていく
だから「新種目」であるbaby carは「種目」としては素晴らしいが、「記録」としてはこれからなのだ

そう考えると、今回の25周年ライブは「シャーベッツ・オリンピック」のようなものだった
100メートルのタイムで例えれば、どの曲も9秒台の戦いに値する演奏だった
野球のピッチャーに例えれば、どの曲も球速160キロを超えている
その中でもJJDは100メートルなら9秒5、ピッチャーなら170キロといったスポーツの世界ではまだ達成されていない領域の演奏だった

スポーツでも芸術でも、観客はその才能に圧倒されたくて観戦する
僅差による判定勝ちではなく、圧倒的なKOを求めている
スポーツの世界で技術を磨く術というのはイメージしやすい
筋力を向上させ、体の使い方を研究すれば記録は上がる
だが芸術の世界で作品を向上させるためには何をすればいいのだろう?

ベンジーの場合、レコーディングして完成させた曲を、その後、演奏する度にレコーディングして完成させた時よりも素晴らしいものにしていっている
レコーディングが完成ではなく、始まりになっているように思える
でも、曲自体は同じ曲だ
同じ曲を自分で演奏しているのに、前に演奏した時よりもいい曲になる
一体どういうことなのか?

これが料理なら、素材は同じ、調理方法も同じ、作っている人も同じ
それでも作る度に料理が美味しくなる、ということだ
それもわずかな違いではない
同じ料理だが、圧倒的に美味しくなる

ベンジーと接した他のミュージシャンは、ベンジーのことを「歩く芸術」と呼ぶ
どんな時も音楽のことを考えているように見えるらしい
実際、朝5時に起きて曲を作り、夜、飲みに行っていい歌詞を思いついたら、酔っ払っていてもそれを殴り書きして眠るという
素晴らしい創作態度だが、何かを創ろうとする人間なら、最低それくらいはする
それほど特別なことではない
ベンジーを特別なものにしているのは、多分、もっと別のことなのだ

岡本太郎は芸術において大切なことは、「こういうもの」だと言った
「こういうもの」を描きたい、描くべきだという情熱が起きるまでは、自分は絵描きではないという
「こういうもの」とは、「こういうもの」を表現したいという最初の衝動で、描きたいという衝動ではないという
そして、何度もデッサンすることで「そういうもの」を確かめるという

シャーベッツの曲が演る度によくなるのは、ベンジーの中に「こういうもの」があるからなのではないかと思う
それは曲にしてレコーディングによって固定されるけど、レコーディングは完成ではなく暫定的な形に過ぎないのではないか?
ベンジーの中の「こういうもの」はレコーディングで固定されたものとは違っていて、画家が何本もの線を用いてデッサンを重ねるように、ベンジーは何本ものライブを重ね、「こういうもの」を表す一本の線を探しているのではないか?

だから新曲のbaby carにはまだデッサンの跡はない
それが他の曲と比べると、子供のように感じさせてしまったのだと思う
当然、シャーベッツの中にはいろんな年齢の曲がある
アンドロイド・ルーシーは25歳でコリーは15歳、lady nedyは8歳で知らない道はまだ1歳にもなっていない
種子を見てもそこからどんな花が咲くのかはわからないように、曲ができた時、その曲がライブを重ねることでどうなっていくのかわからないのかもしれない
わからないから育ててみるしかない
そうやってベンジーは自分の中の「こういうもの」をコツコツと具現化していったのではないかと思う
だからどの曲も最初に聴いた時より素晴らしいものになっていくのだと思う

画家の場合、描き上げてしまえばそこから作品が成長することはない
だが音楽の場合、曲は演奏することで成長するのだろう
もちろん、全く成長しない曲を作る音楽家もいる
ベンジーのように成長していく曲を創り、それを自分で育てていくというのは、岡本太郎が言う「こういうもの」を持った人でないとできないのだろう

ライブ以来、自分の頭の中ではbaby carが常にリフレインしている
シャーベッツは過去のシャーベッツをなぞらないから、常に最新の曲が最も素晴らしい
5年後、シャーベッツ30周年ライブがあるのなら、その時baby carは5歳になっている
その時ベンジーがbaby carの中に見た「こういうもの」がもっと明らかになるのだろう
そしてそれと同時進行で、自分の頭の中ではベンジーが植えたbaby carという種子が育っていく
とても幸せな関係
音楽で繋がるとはこういうことだ

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