見出し画像

【恋愛】「波風の立たない落ち着いた暮らし」が奪う幸せ

いわゆる「彼女いない歴=年齢」の40代男性がいる。彼は、ある女性を好きになったが、コミュニケーションがうまくとれずに小さなつまずきやすれ違いが多く、いつも揺れ動いている二人の関係や彼女の一挙一動に敏感に反応する心に振り回されていた。

好きな人と結ばれたことがない、という現実は、彼から積極的に行動する力を奪っていた。いつも女性からの連絡を待ち、先に自分への関心を見ることでまず安心を得て、それから関わるようなやり方しかできなかった。

だから、女性にとっては「私のほうから動かないと会うこともできない」「デートに誘われることはない」のが実感であり、それなりに寂しさも悲しみもあった。だが、それでも男性に好意を持っていたので、自分から声をかけることをやめられずにいた。

女性には、「相手がどうであれ、その人のことが好きだと思う」自分の心を大事にしたい姿勢があった。だから、休日になってもLINEの一つも送られてこない現実を見ても、自分からメッセージを送ることで彼に気持ちを伝え、それに応えてくれる彼の心を信じていた。

先に愛情を示されるのを見て、それに応える気持ちがあるのなら、男性のほうだって動けただろう。だが、彼は女性とまともに付き合ったことがないためうまい誘い方やデートの計画などがわからず、「わからないけれど自分が動かなくても彼女が誘ってくれる現実」に甘じていた。

その甘えを見て、先に疲れたのは女性のほうだった。

食事に誘っても、お店を決めるのはいつも自分で食事が終わったあとの時間も彼のほうから「まだ一緒にいたい」という言葉は一度も聞かれない。
お互いに休みだとわかっているのに、前の日の晩も当日も、彼からは決して連絡は来ない。
誘えば会ってくれるけど、こちらから動かない限り彼の好意を感じることはできない。

だから、彼女は動くことをやめた。朝の挨拶の言葉だけ送ってくる彼とのLINEを削除し、電話もこちらからかけることはなくなった。

「寂しいじゃない。

もっとLINEがしたいって言っても、『雑談は苦手』とか言って本当に何もしてくれないの。いつも私からで、それを待っているあの人の姿を思い浮かべると嫌気がさしちゃって」

彼女はため息をつきながら言った。

そんな彼女の変化を見て、男性は焦った。何がいけないのだろう、俺、嫌われるようなことをしたっけ。この間の食事のとき、奢らなかったのがマズかったのかな。あのあとすぐに別れたのがいけなかったのかな。

常に彼女の様子をうかがい、自分に関心を持っている姿を見てからじゃないと関われなかった彼にとって、彼女が距離を置いた理由は「見当もつかない」ことだった。

自分が寂しさを与えていることも、求められない現実に彼女が苦しんでいることも、彼は想像できなかった。

「応えることが愛情表現」なのだと信じて疑わなかった彼は、そんな自分が彼女の負担になっていることに気づかないのだ。

彼は待った。LINEは通じなくなり、電話しても適当な話題しか出してこずに以前より早くバイバイとなり、彼女から「今度のお休み、ご飯どう?」といういつもの言葉は聞けない。でも、どうすればいいかわからない。こんなときにどんな言葉をかければいいのか、どんな行動を取ればいいのか、「彼女に好かれている」ことに自信の持てない彼は、結局気持ちを飲み込んで「おやすみ」と素っ気なく通話を切ることしかできなかった。

いつか彼女の機嫌が直ったら、また誘ってくれるだろう。待てばいい。それまで自分が見てきた彼女の姿を信じ、待つことしか、彼の頭にはなかった。

それでも、相手が何を考えているかわからないストレスは、いつものように彼の心をかき乱す。

もう嫌われたのかな。
俺のことなんてどうでも良くなったのかもしれない。
やっぱり、俺みたいな男じゃダメなんだ。
でも、それならはっきり言ってから離れてほしかった。
どうして彼女は俺を傷つけるんだろう。
俺は何もしていないのに。
俺は被害者だ。
俺は何もしていない。
悪いのは彼女だ。
向こうが勝手に離れていこうとしているんだ。
どうして俺が傷つけられないといけないんだろう。
俺は何もしていないのに。

彼は寂しかった。相手にされなくなった自分、やっぱり好きな女性とうまくいかない自分、彼女の愛情を失った自分、その惨めさが、彼のなかに怒りを生んだ。

俺は何もしていないのに。
俺はただ、穏やかで波風の立たない毎日を送りたいだけなのに。

また、彼女に振り回されている。
もう嫌だ。

俺は何もしていないのに。

こうして、彼は彼女に会えないまま、歪んだ怒りだけを抱えて過ごしていた。自分は悪くない。彼女に傷つけられるのは不当な現実であって、俺は被害者だ。そう思い込まないと、「すでに愛されていない自分」を正面から見ることは、彼にとって拷問と同じだった。

たとえば、彼が勇気を出して彼女に「何かあった?」と尋ねていれば、彼女は求められないことが寂しいのだと本心を打ち明けられただろう。

だが、後でそれを彼に伝えたら、彼の答えは

「そんなこと、自分から言えばいいじゃないか。
察してくれってこと?
じゃぁ俺が悩んだり苦しんだりしたことはどうなるの?」

と悲痛な声が返ってきて、あぁこりゃダメだ、と思わず横を向いた。

彼の関心は、あくまで「彼女に好意を寄せられる自分」にあった。彼女が何を考えているのか、自分との関係をどう思っているのか、感情の機微はたいした問題ではなく、彼が知りたいのは常に彼女が自分のことを好きかどうか、だけだった。

だから連絡を待つ。自分からは動かない。「波風の立たない穏やかな生活がしたい」と繰り返し口にする彼は、感情の摩擦を嫌い、彼女が自分の理想通りに存在することだけを望んだ。

うまくいかない現実は、彼女のせい。こう思わないと、彼は立ち行かない。「どうかした?」「俺、何かした?」と彼女に尋ねることは、想像から外れた感情の波を呼ぶ。知りたくない。ネガティブな感情に振り回されたくない。だから訊かない。彼女の気持ちなど、知ったところで「俺のことが好きでないならどうでもいい」。


彼女は、彼とのつながりを終わらせることに決めた。距離を置いている自分を見ても何も訊いてこない、薄っぺらな会話を平気で続けようとする彼、また自分から誘われることを待っている彼を見て、これ以上好意を向けたところでまともな関係を築けないことを悟った。

「わかっていたんだけどね、こんな人だって。

弱くて、先に愛されないと愛せない、自分のことが好きな私にしか価値を感じないんだって、知っていたけど。

LINEができなくなったことすら訊いてこないのよ?

普通、『何かあった?』とか尋ねない?

本当に、自分に都合のいい私しか必要としていないんだよね」

距離を置けば、彼のほうから歩み寄ってくれるかもしれないと彼女は思っていた。離れていく自分を不安に思えば、行動を起こす気になるかもしれないと思っていた。お互いに気持ちについて、確認ができるかもしれないと思っていた。

常に「先に動くこと」を任されていた彼女にとって、距離を置いたのは彼の本心を知りたいからだった。

その答えがまさか、「波風の立たない穏やかな暮らしがしたい」だとは露も思わずに。

終わらせると決めて彼に会いに行き、「いつも私からじゃないと約束もできないし会えないし、求められないことが寂しかったの。でも、あなたは私が離れていくのを見ても、何も確認しないんだね」と本音を打ち明けた。

彼の言葉は、

「そんなの、言ってくれないとわからないよ。
俺はただ、波風の立たない穏やかな暮らしがしたい。
振り回されたくない。
もう疲れた」

だった。

憎々しげに唇を歪めて話す彼は、疲弊しきっていた。

その姿を見たとき、彼女は彼がどれだけ苦しみ、悩んで、その結果自分を遠ざけることを選択したと知った。

歩み寄るのではなく、切り捨てるほうに。

「まるで自分は被害者で、私が加害者って会話だったよ」と彼女は笑いながら言った。

この男性とはそれきりになったが、結局深い絆で結ばれた実感もなかったことから彼女の日常はすぐに戻り、彼との日々もそれほど後を引くような思いはしなかったそうだ。

「波風の立たない生活とかさ、変化を望まないってことでしょ?

つまり、変わる気はないし進歩がなくても構わない、自分はこのままでいいってことよね?

そんな人と一緒にいたって、私ばかりが努力を強いられることになるのよね。

それがまともな関係だと、理想だと思っているのなら、ちゃんちゃらおかしいわ」

アホくさ、と鼻で笑って彼女はコーヒーカップを取り上げた。

最初は純粋に彼に好意を持ち、いい関係を築きたいと、彼女は願っていた。だから積極的にアクションを起こさない彼を見ても、自分の気持ちに従って好意を向け続けることをやめなかった。

それに甘んじた彼は、彼女が自分に愛情を示すことを当然とした。それに応えることが愛情表現なのだと、それは間違いじゃないと、行動しない自分を正当化した。

対等でない関係はどうしてもつまずく。まっすぐ結ばれるべきときにお互い心が違う方向を向いていれば、触れることはできない。小さなすれ違いや意見の衝突は消えず、そして改善もない。

それを乗り越えるために心を開いて気持ちを打ち明けるのがコミュニケーションであり、「波風の立たない穏やかな暮らし」を望む限り愛する女性と幸せな恋愛をすることはできない。

その現実を、彼は知ることができなかった。彼は今もひとりぼっちで、「彼女なんていらないかな」とうそぶきながら誰からも顧みてもらえない生活を続けている。

それが彼の望んだ「波風の立たない穏やかな暮らし」であり、彼はこれからも、自分の理想通りの関係を築ける人を待つのだろう。

そして、同じように失っていくのだろう。

選択したのは彼であり、誰も責めることはできない。

それが現実。

読んでいただき、ありがとうございます!  いただいたサポートは執筆の必需品、コーヒー代にあてさせていただきます!