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「私のことをどう思うかはあなたの問題」って話

依存体質の人が相手を攻撃するとき、「こういうところが嫌いだ」「無理」と”拒絶するときほど力強さを見せ饒舌になる”があるんだけど、聴いていると

「私(俺)にこう思われることはそっちにとって重大な問題」

と思っていることがわかるんだよね、だから”わざわざ”汚い言葉や表現を駆使して気持ちを口にするんだろうし、「伝える」ことに躍起になる。
関心がなかったらそんなことはしないでしょ、己の気持ちに大きな価値があると思い込んでるから”わざわざ”電話でも会いに来てでもその自分を見せに来るんだよね。

この姿が依存丸出しだなと感じるんだけど、「こう思わされている自分」を見せたいんだろうね、自分で選んだ感情なのだとは露も思わない、こんな感情を「与えられた側」で害を被っていると無意識に決め込んでいる。

私は経験があるが、自立した人は相手に向けるそういう悪感情を”わざわざ”は伝えないんだよね、その自分をよしとできないから「黙って離れていく」、縁を切る。
そうやって離れていかれた側として、私は「私と向き合う関心をなくしたのだな」「あの人は自分を大事にするから私をあえて傷つけるような言葉も吐かず去っていったんだな」と受け取った。
最後の場面で私はその人を責めていて、それを受けて弁解するでもなく私の有り様を罵るでもなく「黙って離れる」を選ぶのは、これ以上関わっても”自分が”嫌な思いをするだけだと正しく割り切ったのだろうなと思った。
愛情の有無はそのまま言動に反映される、離れていかれた結末は私自身が招いたもので、そう理解したからその人をまた追いかけて愛情をねだるような真似はしなかった。
こうやって自分が損をする経験をして、「私もするまい」と決めた。

依存体質の人は、自分の在り方を相手に委ねるから、抱える感情を「与えられたもの」として憎むんだよね。
相手を好きだとか長所を口にするような姿は積極的に見せないが、「傷つけられた」ときの勢いの良さは人一倍強くて、痛みの解消の責任を相手に持っていくんだよね、自分の受け止め方がちょっとおかしかったとか、相手はどう思ってそれをしたのかみたいな想像はしない、確認は避ける、言ってくるときはひたすら「自分は被害者でそっちは加害者」の立場を出してくる。

抱えた感情は自分の問題で”自力で何とかできるもの”って考えがない、って姿は、本当に自分の在り方を相手次第にしている証拠で、過去の私を振り返ってもぞっとするが、怖いよね、歓喜も恐怖もすべて相手に支配されている状態なんだよ。
それを己の都合よく分別して「傷ついたときほど」威勢よく噛み付いてくるのは、駄々をこねる子どもと同じで「機嫌を取って!」って迫るのと同じだよなと思う。
己の感情すら己で責任を持てない、受けた痛みをそのまま相手に何とかさせるやり方しか思いつかない、「黙って離れる」ができない弱さ。

こういう男性に絡まれて疲弊したことがあるが、「私のことをどう思うかはあなたの問題」と当時ははっきり言えなくて、黙って聴くだけだった。
これをすると後で自分が後悔するから相手を罵ったりはしないが、相手はひたすら「だから俺は被害者だ」を繰り返していて、自分のしたことは棚上げしてとにかく「そっちの言動に傷ついた自分」と「それをするそっちは最低の人間」の主張に終始していて、大変そうだった。
俺の気持ちはそっちにとって大事だろう、そんな思い込みが見えたので遮らずに聴いていたが、逆よな、その人にとって私こそ己のすべてを支配する大きな存在なのだなと思った。

相手がこう受け取る現実を、依存体質の人は気づかない。
私の振る舞いひとつでブレる己の不安定さを知らない、「こっちを常に良く保つ」のが私の役目で、それを見透かしたうえでたとえば私が言葉巧みに私の都合よく存在させようとしても、気づかないままその人は従っていただろうなと思う。
己の有り様を相手に委ねる人間は、利用されるケースもある。
罵詈雑言なんて愛情を向けていない相手からならどうとも思わない人はいるので、その言葉を適当に受け止めて機嫌を取って己の利益になるよう存在”させる”サービス業の人も実際にいる。

自分に置き換えてみればわかるのだけど、その人をどう思うのかって「問題」はあくまで自分に影響するものでしかない。
こちらを何とも思っていない人に己の”感想”を伝えたって、「ああそう」で済まされたらそれ以上の進展はない。
こちらに関心があるとわかる人であっても、己の”感想”によってどうするかは自分ではなく相手が決めることであって、手は出せないのだ。
その選択を”させようとする”のが依存体質の人で、見ているのは自分の満足なんだよ、感想を言うことで「こっちの思惑通りになれ」と迫っているよなと思う。
そして叶えない相手をまた責める、自分の不満の解消を相手の役割にする、こんな人は相手がどう変わったって不満を捨てられず「伝えること」をやめられない。

心が自立していれば、相手に向ける悪感情の”始末”は自分でしてこそ健全で、黙って離れることが自分のためなのだとわかる。
人は変わらない。
みずから変わろうとする意思があって初めて変化は叶うのであって、他人がどこからつつこうと”その自分”に違和感を持たない人は永遠にそのままだ。
いい関係を築けない、そのつながりに安らげないなら相手を変えるのではなく自分で別の道を選択するのが、相手のせいにせず自分の在り方を決める自立なのだと思う。
その決断には、相手と自分を切り離す力が要る。
依存や癒着で続く関係は、必ず大きな負荷が心にも体にもかかる。
それをやめる力が自分の「この先」を良くする、変わる自分に不安を覚えても実際に身を置いてみなければどう思うかはわからない、離れたことで清々しく息をつける自分を知るなんてのは、依存体質の人との関係を断ち切った人からよく聴く話。

自分が向ける気持ちの”重大さ”は、自分にしか関係しない。
それが自立で、自分に向けられる感情も等しく相手の問題でしかないのだよと。

引き受けないこと。
背負わないこと。
課題の分離はお互いが正しく向き合う姿勢を作る。

「自分はこう思うのだからそっちはおかしい」と言ってくる人は、自分こそこちらの存在の大きさにがんじがらめにされてるよって話。

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