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「断られるのが気に入らない」人々

友人の話。

彼女が仕事やプライベートでバタバタしているのは連絡したときに聞いていて、「根を詰めすぎんようにごとごとやりよ」と送っていた。

私と似ているというか、やる気のあるときは関わるすべてに全力で打ち込んで周囲を忘れるクセがあるので心配した。

その彼女から着信があり出てみたら、「しつこく連絡してくる友人に困っている」と言う。

「飲み会とか家でご飯とか、『忙しいなら大変でしょ』と言ってくれるのはうれしいんだけど、断ってもまた2日後とかに別の用事で電話してくるの。

『コーヒー好きだったでしょ、もらいものだけど持っていこうか?』とか『○○でランチでもどう?』とか、だからこの間忙しいって言ったよね……と思うんだけど正面から無理って言うと角が立つしこの人の性格だとブツブツ文句を言うのが目に見えてるし、とにかく『忙しいから』で断ってるのね。

今はもうスマホが鳴るのも怖くって。

どうしてねじ込んでくるんだろうね」

スマートフォンの向こうでため息をつく彼女の声は、イライラを超えた疲弊で低く潰れていた。

多忙だと言っているにも関わらず存在を”ねじ込んでくる”のは、自分への関心が見たいからだ。

「好きなものを持っていく」「好きそうなお店に誘う」、これらは彼女のことを考えた配慮や善意に見えるが、そもそも忙しいと約束を断っている相手に出す提案じゃあないよね。

相手に対してまともに情愛を持つのなら、「自分の提案で用事を増やす」ことはしないんじゃないの? と思う。

「付き合うのは難しい」と返されたら、引くんじゃないの?
自分のせいで相手の負担を増やさないように。
それが本当の配慮だと私は思うし、「落ち着いたらまた連絡する」とも彼女は言っていて、それを待つのが本当の友情じゃないのかと。

「自分は善意で関わっている」という顔で連絡をしてくるのは、彼女が断りづらいのをわかっているからだろうなと思った。

「私のために言ってくれている」と思わせることで、自分がかける負担をナシにしたいのだ。

会ってくれるよね? OKするよね?
だってあなたのためだもの。

この”圧”を平気でかけられる時点で彼女のことを対等な人間とは思っておらず、

「忙しかろうが何だろうが自分は善意で連絡しているのに、それを断るのは失礼」

と「こちらは応えてもらって当然」考えているのがよくわかる。

だから何度断られても懲りずに連絡してくるのだ。あの手この手で彼女の関心を引き、自分の善意を受け入れさせようとする。

自分の”善意”を断る相手が許せない。

結局はこれなのだ。

善意を踏みにじるなんて非常識。
せっかく好意を向けられているんだから、応えるのが人として当たり前。

こんな言い訳を用意しているのが目に見えるが、

その善意が相手にとって大きな負担になっている現実

についてはいっさい見ないし考えない。

こういう自己愛の強い人は、自分の提案を断る相手にすぐ腹を立てるしその事実が癪に障るから、何とかして「応えさせる」ことを考える。

だから連絡の内容がすべて

「こちらは善意で関わっているのだから、断るほうがおかしい」

と相手を責められる立場での提案になる。

断ることに罪悪感を抱かせたい、善意を受け取らないことを謝罪させたい、そちらを思いやってあげている自分に感謝するべき。

こんな下心があるから「数回断られても間を置かず連絡できる」のだ。その姿を確認するまでは引けない。モヤモヤを解消させるまで続ける。

相手の事情を知ったうえで「こちらに関わるべき理由」をあれこれと作り、執拗に連絡してくる。

これが歪んだ自己愛でなく何なのか。

恐ろしいと思うのは、こういう人は自分が同じことをされたら「失礼」「ムカつく」と腹を立てることで、自分は感謝しないが感謝はされたいのだ。

彼女にこの圧をかける友人は独身で実家住まいらしく、”自分がしているように”こちらの事情を無視して善意を受け取ることを強制してきた別の女友達に対して、「私は親の金があるから生活は苦しくないし、そんな貧乏くさいおすそ分けはいらないっつーの」と吐き捨てていたそうだ。

この矛盾、「自分は特別」と思い込むから身近な人を簡単に威圧できるのだろうなと思う。

特別扱いを望むから身近な人に「応えろ」と負担をかける。

本当に彼女のためを思っているのなら、まず事情をちゃんと聴いて状態を確認するし、自分の相手ができないとわかれば潔く引くだろう。
それが尊重であって、”善意”の仮面をつけた自分の要求に応えさせる時間など作らせないのだ。

断られるのが気に入らないから、何とかしてそれを変えたい。
自分は”相手のためを思った提案ができる善人”であり、それを認めさせたい。

幼稚で子どもじみたこの自己愛が、情愛も友情も消していく。

こういう自己愛の強い人が目をつけるのが「普通の善人」であり、彼女のように笑顔で相手との会話を楽しむような姿が、「自分の自己愛を満たす道具」にされる。

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これねえ、やっている側は本当に「自分は何も悪いことはしていない」って顔をするんだよね。

全部相手のためになる話であり、自分はそれに労力を割いてあげる側、その立場を強調する。

「善意で関わっているのだから、それを断るほうが失礼」

本当にこれを前面に出してくるんだよ。だから厄介。

その”関わり”は、今じゃなければいいのになと思う。
その心遣いも配慮も、何も彼女が多忙で時間を作りづらい今じゃなく、落ち着いてゆっくり会えるときに伝えればいいのにね、と。
ていうか、本当に思いやりがあるなら(何度も繰り返すが)連絡は控えるもんじゃないの? と。

この違和感を無視できるのが自己愛の強さで、すべて自分の世界でしか考えていないんだよ。

その一方でね、

手を変え品を変え相手に「こちらに関わるべき理由」を押し付けたってさ、応えるかどうかはどこまでも相手の自由であって、コントロールはできないんだよ。

自分だってそうでしょう、忙しくてどうしようもなくお断りするときもあるでしょう。
自分と相手は生活も環境も違う、向こうはOKでもこちらはNOで、受け取れなくても仕方ない場面だってあるでしょう。

これが対等なんだよね。

こういう、善意の仮面をすぐ被って相手に「こちらを見ろ」とねじ込んでくる人は、他人との関わりでたぶん無理をしているんだろうなと思う。

”自分は”無理をして他人のために時間を作る。
嫌なことでも渋々引き受ける。
善意を前提に労力を要求されたら提供する。

まず自分がリラックスした状態で他人と過ごす機会が少ないから、身近な人に対して”同じように”奉仕と貢献を求めるというかね。

「こちらの善意に応えるのが当たり前」は、相手に尽くすことや無理をして受け入れることを求めているのと同じだよ。

損得勘定みたいな価値観で人を見るから、そうじゃない相手に思い切り嫌悪される。

彼女に圧をかけるその女性は、知り合いのなかでも「予約のキャンセルを押し付けてくる」「こっちを部下扱いしてくる」とネガな関わりばかりが話題になり、はっきりと”浮いている”そうだ。

飲み会を開くときでも絶対に名前が出ず誰も誘おうと言い出さず、普段から軽く集まるときでも声をかける人がいない。

現実はそんなもので、周囲は誰も自分を「特別な人」とは思っていないのだ。

他人との関わりが「常に自分が声をかける側」になるのも自己愛の強い人で、応えてもらわないと期待も理想も叶わないのがね、本当にしんどいなと思う。

その「応えてくれるかどうか」はすべて相手しだいで、断られるのが気に入らないから(断られる自分を見たくないから)応じるように圧をかけるのさ。

そうやって情愛や友情で普通に結ばれていたはずの人まで失っていく。

彼女はこの女性と「表面だけの付き合い」は続けていくそうで今もきっぱりとした拒絶は見せていないと言っていたが、正直いつまでその辛抱が続くのか、屈折を抱えて心が壊れる前にいったん距離を置いたほうがいいのではと私は思っている。

「特別な自分」を見たがる人は、それを叶えてくれる人を決して手放さないから。

自分が向ける”善意”や”好意”はすべてプライドを満たし「すごい自分」を実感するためのもの、相手は「ひれ伏してありがたく受け取るのが当たり前」なのが、自己愛の強い人だから。

その役割を外れようとすると執着がはじまる、ネガティブな威圧で「こちらを見ろ」と肩を叩いてくる。

断ることをすべて「失礼」「非常識」で片付けてしまう人と対等な関係は築けない。

それが現実。


「気に入らない」のはその人の問題でしかなく、付き合い続けると永遠に自分の自尊心を削られるよって話。



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