愛着障害者が本気で恋愛を考える
久しぶりに学生時代好きだった西野カナの歌詞を思い出した。distanceという曲の歌詞だ。
中学生の頃に聴いていたからだろうか。
歌詞に共感するのだろうか。
この曲を聴いていると、
中学生の頃の加藤ミリヤ化していた自分を重ねて、少し辛くなるとともに、
恋に熱中していた自分を羨ましく思う。
私は恋愛における無償の愛の感覚が分からないので、いくらでも男は代わりがいると思ってしまっている節がある。
恋愛に熱中していた頃の過去の恋愛、あれは無償の愛だったのだろうか。
恋をしている自分に酔っていただけ……ということもあり得てしまうので恐ろしい。
自己紹介として、私は静岡で予備校講師をしている。
20歳の自閉の傾向が強かったセダンの走り屋ヤンキーと、24歳の愛着障害をかかえたヤンキーの無計画子作り行為により、私はこの世に誕生した。家族の間に愛などなかったので、わずか3年で両親は離婚した。
それから、父親と呼べる人との愛着形成がうまくいかず、愛着を恋人に求めたのであろうか、
私は人生において、あまり好きな人と呼べる人が途切れたことがない。
しかし、こう自分の人生(恋愛歴)を振り返ると矛盾が生じていることに気がつく。
【解釈】愛着を恋人に求めている?
【解釈】それは無償の愛ではない。
【解釈】一途に思っていたけど、叶わなかった恋愛をしてきた経験があるから共感できる?(けんた、たかしetc)
ここである。ここが矛盾しているように思うのだ。
そこで私はいくつかの仮説を立てた。
仮説の検証1【過去の恋愛は無償の愛か】
最近、生徒に対して「これは無償の愛だな」と思う場面があった。
かえがきかなくって、唯一無二の存在で、見返りを求めていない存在。
すなわち、理論での理解でなく、「無償の愛」の感覚を会得し始めていることになる。
では、過去の恋愛は無償の愛だったのだろうか。
──残念ながら、無償の愛とはいえない。
【両思い】【私のことを好きになって欲しい】という見返りを求めているからだ。
そのため、2つの仮説が消え、残りの、
【恋愛している自分に酔っていてそんな自分が好き説】
【誰かに愛されている自分が好き説】
【ゲーム脳で、相手を両思いにさせたら勝ちという思考説】
という説が残る。というかもう全部間違いない。
仮説の検証2【相手のことが好きか自分のことが好きか】
この仮説を証明するために、考えたくないが、
本当に今までの好きな人のことが好きだったのか、
そんな自分のことが好きなのか問題に
決着をつけなくてはならない。
そもそも好きな人とはなんだろう。
私は刹那的に好きな人が変わるのだが。。
腰が細い人が好きだ
外装の美に捕われている……。
そして、
LINEが続いたり、電話をしてくれたり、車で送ってくれたり、ご飯に連れていってくれる人がその時の刹那的にナンバーワンで好きな人だ。
(コロコロ変わる)
すなわち、
自分に対して労力をかけてくれる人が好きなので、自分に対して労力をかけてもらいたいのであろう。
自分に対して労力をかけてくれる、そんな人を彼氏にしたいので、両思いになるために頑張る。これが私の考える、恋だ。
ということは、やはり…………
私は自己愛が非常に強く、やはり無償の愛が分かっていないことが結論づけられてしまった。
みんなはどのように恋愛をしているのか教えてほしい。
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