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松井五郎さんにきく、歌のこと 9通目の手紙「僕らは”われわれ”のことを書いている」松井五郎→水野良樹

水野良樹様

 明るい兆しの見えない日々。また厳しい状況になってしまいましたね。ライフラインの順列で言えば、音楽は優先順位が高くはないのかもしれませんが、それを生業としてる人たちの悲鳴も、他の業種の人たち同様、絶えることはありません。必要な所に声が届いていない気がします。一方で、苦しい状況にあっても頑張っているアーティストの歌声には励まされます。一日も早く、暗雲から光射すことを願うばかりです。

 さて、今回は近年気になったいくつかの歌詞について話をしてみたいと思います。

 まず、前回伺った坂本冬美さんの「ブッダのように私は死んだ」


 桑田佳祐さんの歌詞にはこれまでも刺激を受けてきました。遡ればサザンオールスターズの登場は、ひとつの音にひとつの語を乗せにくい日本語の呪縛に囚われていたJ-POPにおいて、誰が何処で何時なにをした...と言った文法も含めた叙述を優先する意味性から解放してくれたように思います。単語そのものの響きを駆使した作風は現在に至る洋楽的なグルーヴの走りでしょう。英語にしてしまえばグルーヴを殺さずにおける箇所も、敢えて日本語に拘っていたように思えます。「勝手にシンドバッド」や「真夏の果実」のサビにしても、音として捉えると英語的な音感でありながら、日本語として耳に残る言葉を選んでいる。そして、一見脈絡のないフレーズに思えても、実は、単語そのものが含んでいる意味を無視してるわけではないので、それが歌としては強烈な印象を残しながら、さらに感情移入できるものになっている。後に、所謂ノリだけの似たような作品は多く出てきましたが、桑田さんの詞がそれらとは違うのは、ただの言葉遊びではないからだと思います。

 そして今回の「ブッダのように私は死んだ」


 モチーフは火曜サスペンスだとなにかで目にしました。印象深いMVも合わせて、火曜サスペンスというワードは、よくドラマなどにある「この物語はフィクションです」の注意書きの効果があるように思えました。というのも、山林で遺体を埋める穴を掘っている姿を連想させる一連のシークエンスは、現実の事件で誰もが耳にし想像する場面で、そこに「目を覚ませばそこに土の中」という歌が被ってきた時、得も言われぬリアリティが生まれると思ったからです。

 昨今内省的な歌が多く、若年層の歌詞には死=タナトスの臭気も立ちこめていて、他方コロナ禍の最中、人の繋がりや命讃歌もあふれています。作詞の依頼を受ける場合も、死を扱うには気を使うことが多いのですが、この時期にこの歌詞を出してきた桑田佳祐という作家の勇気と熱量の高さを感じました。そしてそれに身を投げた坂本冬美さんも素晴らしいなと。現実が厳しい時こそ、歌は生身に寄り添わねばと模索している最中、「娯楽」としての歌をやってみせてくれた。ただ、それでいて、歌詞を見渡せばすべてがフィクションというわけでもなく、確信犯的とも言える、「ゲリラ豪雨」など現実的な言葉も散りばめ、桑田さん流のタナトスの表現なんだとも思えます。

 情報社会、ネット社会が加速するにつれ、バッシングや誹謗中傷を怖れ、いつのまにかどこかで過剰な自主規制や歪な自浄作用に陥りそうな自分がいます。演歌の様式美に手を掛けてみたいと思う反面、予定調和になりがちな語彙に迷ってばかりです。水野君と冬美さんに書かせていただいた作品も、とても良い曲になったと思うのですが、詞の事で言えば、カテゴライズされた世界観からもっと踏み出せるはずだと思えたりもしています。

「骨までしゃぶって私をイカせた」など、作詞家が提出したらリライトを言われそうなフレーズも刺激的ですよね。思いついても書けるかどうか。人は、あれは桑田さんだから...と言います。でも、それを肯定してもらえる作品を書かなければ、作詞者としては未熟ですよね。

「ただ箸の持ち方だけは無理でした」といった唐突にも思えるフレーズも、生理的なところを捉えた感情表現として見事です。「ごめんねお母さん」からの「みたらし団子が食べたい」は反則ですよね(笑)。そして最後に「やっぱり私は男を抱くわ」。抱かれるのではなく抱くで結ぶ。死生観までも感じさせながら、娯楽としての歌のソウテイ崩さず、今の時代の演歌だなと思いました。近年で一番衝撃的でした。
 
 桑田さん同様、次のフレーズの予測がつかない詞を書くアーティストという意味でCRAZY KEN BANDの横山剣さんがいます。レトリックしないレトリック、デフォルメのないデフォルメとも言えそうな言葉の捕らえ方。普通恐らく誰でも歌詞を書く場合、詩的或いは詞的であることを考えると思います、ですから、あまり口では言わないようなフレーズが歌として許されたりもするわけで。ところが、剣さんの歌詞は、実際の会話をそのままメロディに乗せたような表現が多く、それがサウンドや彼の声と相俟ってモダンに聞こえてしまう。


「IVORY」という歌の「安全な車間距離 空けた途端 割り込まれた...」。余計な装飾のないこの部分を見ても、字面だけを見れば歌詞とは思えない説明?のようなフレーズが歌の中で聞くと不思議と感情移入できてしまう。まさに横山剣マジックだと思います。


 この「サムライ・ボルサリーノ」に至っては、サビでアラン・ドロンの主演映画のタイトルだけ並べています。流石にこれは勇気のいる行為です(笑)。歌詞はあくまでメロディとアレンジと歌との共存が宿命付けられています。その意味で、剣さんの創作は作詞家という立場からではアプローチし難い領域だと言えます。

 さて、桑田さんの話の中で、現代は内省的な世界観の歌が多いと書きましたが、実は、振り返ってみると、その源泉はフォークソングにあったのではないかと思いました。中でも井上陽水さんの「傘がない」や「氷の世界」は後の多くのアーティストに影響を与えたはずです。


「傘がない」で描かれた個と外界の距離感は米津玄師さんの世界にも感じるものが僕にはあります。時代背景はあったにせよ、「傘がない」の「自殺」という語彙は選択するのに勇気がいる。歌詞の中で強い支配権を持ってしまうからです。米津玄師さんで言えば、「馬と鹿」の冒頭の「麻酔」という言葉が出てくる。この言葉も同じ理由で躊躇する。シンガーソングライターならでは言ってしまえばそれまでですが、やはりそういった言葉も捕らえる事のできる感性と具現化できる勇気は尊敬と同時に嫉妬すら感じますね。


 内容は別物ですが、YOASOBIの「怪物」の冒頭の「世界」という言葉も、陽水さんが「窓の外にはりんご売り…」と歌った「氷の世界」の延長線上にある気もします。


 Uruの「振り子」の閉塞感も60年代後半から70年代僕らが聞いていたフォークソングの匂いがします。とはいっても、あの時代は、まだ対峙すべきものが大人たちの作った世界で、そこに対する不満や不安が歌になっている事も少なくなく、陽水さんの「傘がない」が登場してくるまでは、生きるという熱量は外に向いていたように思います。


 青葉市子さんの世界観も内省的ではありますが、また独特のベクトルを持っています。


 自然界の霊的なエネルギーの巫女的な役割を果たしているかのようです。作家が踏み込み難い結界すら感じる。表現者自身から発光する光量に含まれるリアリティは、第三者として関わらざるを得ない作詞家ではフィクションにしかならない世界観があります。そもそも、言葉を捕らえようとする時、所謂言霊、そこに霊的なエネルギーが宿るかどうかにかかっています。オカルト的な意味ではなく、声に乗って発せられた瞬間に感じるなにか。それは体温でもあるかもしれない。叙述の意味から解き放たれ、レトリック以前に既に意味を内包している音としての言葉。彼女の歌詞は肉体とは切り離せないものとして在るのではないか。それはもう自分が扱っている記号としての言語とは違うもののように思えます。自分も、実は、それに近い試みはしてきてはいますが、声を持てない作詞家という立場の限界を感じたりもします。

 まだまだ多くの歌に刺激を受けましたが、きりがないので、また別の機会に。

 好きな歌や刺激を受ける歌を分析するたび、自分にまだトライすべき事がある気がします。苦しく厳しいながらも道は続くということでしょうか。

 いきものがかりの新曲「BAKU」聞きました。
 疾走感のある曲調で聖恵さんの声は新鮮ですね。

 「混沌で僕らは生きてる」

 ニューアルバム「WHO?」楽しみです。

  
松井五郎

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