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世界の貧困問題に挑む長野のホーム・ファーマー

長野県の山奥で土をいじりながら、世界の貧困問題を生み出す構造をひっくり返そうとしている百姓の話を紹介したい。

価格がつけられない食べ物

「価格がつけられない食べものはなんだと思う?」。それが、宇野俊輔さん(59)に出会って最初に突きつけられた問いだった。答えに窮していると、仙人のように常に穏やかな笑みを浮かべている宇野さんは「自給する食べものだよ」と、優しく教えてくれた。命を支える食べものは商品として売買されるべきではないという持論を、14年前に移住した長野県伊那市高遠町黒沢集落で仲間たちと実践している。

標高900メートルに位置する山あいの谷間に広がる田畑を舞台に、無農薬、有機肥料で農業をしている。収量が安定せず、手間もかかるが、健康な土や環境を次の世代に残したいとのこだわりがある。約3ヘクタールの農地で米や野菜など40品目以上を栽培し、そのうち18アールで採れる作物は、2011年に立ち上げた会員制参加型農業「RURA」の会員に送っている。

会の名前のRURAは、Linkage Between Urban and Rural By Agriculture(農業による都市と農村の連携)の頭文字からとった。「つくる人と食べる人が協力して食べものを生産し、分配する」。これが、会の基本的な考え方だ。年会費は作物の代金ではなく、会の運営費として、種苗代や肥料代などにあてられる。その中には、土地がない人、技術がない人に対して宇野さんが生産を代行する労働代も含まれる。

拡張家族

農作業や自然と関わる取り組みなど、年4回の会員の「寄り合い」がある。この他、随時、自分たちの田畑の作業に参加でき、会員たちは東京や近郊の町からたびたび通ってくるが、それ以外は宇野さんが彼らの代わりに作物を育てている。何を育てたいか、宇野さんと会員が話し合い、その年の生産計画を作成。それに基づき、みんなで年会費の額も決めている。会員は生産の苦労や価値を理解しているので、宇野さんがちゃんと暮らしていける適正な額が設定され、作付け前に支払われる。

その年の天候によって、豊作のときもあれば、不作のときもある。会はつくる人と食べる人が、互いに安心を得て、共に農の恵みとリスクを分かち合うことで互いの生活をよりよいものへと変えていくことを目指しているので、不作時の払い戻しや、豊作時の追加徴収はしない。一昨年、収量が多く、分配される作物の量も増えた。しかし、消費仕切れずに廃棄せざるを得なくて困ったという声が複数あがったため、収量が多いときは家族3人分の作物を各会員に均等に分けて、余った場合は余分に欲しい会員のところへ贈与することにみんなで決めた。

会には、野菜、大豆、米の3つのグループがあり、会員は口コミだけで40名ほどに広がっている。地域別の会員比率は、近郊の伊那市、諏訪市、そして首都圏がそれぞれ3分の1となっている。野菜グループの年会費は5万円で、5月から11月に隔週で季節ごとの品目が届けられる(年間約20回)。ほとんどが東京の会員だ。大豆は年会費4500円で3kg〜4kg、米は6000円で約7kgが届けられる。こちらは、伊那や諏訪の会員が多い。

会員の目標は、150人〜200人に定めている。「会員にはそれぞれ家族や子どももいる。相対するとなると、これくらいの規模が付き合える限度。そして、この規模になれば、安定して農業もやれる。会員からすれば、かかりつけの医者や美容院があるように、かかりつけの農家(ホーム・ファーマー)を持てる。こっちは、会員たちを広い意味で家族だと思っているから、家族のために健康で安全な作物を育てていきたいと思っている」。

漁民不在の机上のプロジェクト

"土の人"を地でいく宇野さんはかつて、"風の人"だった。大阪で生まれ育ち、鉄腕アトムをつくりたいという動機で、金沢大学機械工学科に進学した。同じロボットでも、リモコンで操作する鉄人28号は嫌いだった。人との深い関わりがあり、自分で考えるのが、鉄腕アトム。「今やっている百姓は、俺にとっての鉄腕アトムになっている」。大学卒業後、東海大学海洋学部大学院で海洋工学を専攻し、海洋ロボット、探査ロボットを研究した。その後、東京の建設コンサルタント会社の技術者として、アジアやアフリカなどのODA(政府開発援助)の現場で働いた。

フィリピンのミンダナオ島では、津波対策のための港湾や漁港建設プロジェクトの経済評価を担当した。埋め立てることによって失われる海の価値、強制移転させられる漁民たちの暮らしをどう守るのか。その費用も経済評価の中に入れないのはおかしいじゃないかと上司に異議申し立てしたが、「内政干渉になるので必要ない」と一蹴された。フィリピン発展のための近代漁港なはずなのに、現地で暮らす漁民に会うこともなく、政府高官や政治家だけを相手に机上で進められるプロジェクト。「自分のやる仕事で悲しむ人がうまれていた」。宇野さんは、このままこの仕事を続けていいのか悩み続けた。

依存と服従の関係

36歳のとき、知人に紹介された民衆交易会社に転職した。途上国の産品を適正価格で輸入し、支援するフェアトレードを手がける会社だった。当時、先進国のダイエットブームや人工甘味料の登場で砂糖の国際価格が暴落し、スペインの植民地時代からサトウキビの単一栽培をしていたフィリピンのネグロス島では、大量の失業者が生まれ、深刻な飢餓に見舞われていた。食糧や医薬品の配布などの緊急支援から、公正な交易活動による自立支援に局面が変わったころ、宇野さんは現地に派遣された。

日本では、現地の農薬漬けと労働者搾取のプランテーションバナナが問題になっていたこともあり、無農薬バナナ生産の技術支援と公正な価格での民衆交易が推し進められた。宇野さんは今でも現地住民に言われたことが耳にこびりついている。「宇野、農業はすごいなぁ。私たちは今まで自分の暮らしを守るためには銃を取らざるをえなかった。今は、自分たちの暮らしを守るために農業をやっている。農業はマシンガンだし、バナナは銃弾だ。みんなで集まって話し合っていても、中身は農業の話だから、見回りにくる軍も私たちに手出しできない」。

ネグロス島の住民たちが安定した生存基盤を確保していくためには、さらに自給作物をつくることが必要だった。それも、無農薬と有機栽培で。あちこちの山奥の集落をてんてんとし、紙芝居でわかりやすくその必要性を説いていった。モデルファームもつくり、そこに各地の若者たちに学びに来てもらい、集落に持ち帰らせた。有機栽培は体にいいからではなく、自由でいられるから薦めたのだと宇野さんは言う。「ネグロス島の住民たちは死ぬリスクを冒して土地を獲得していった。その土地に肥料、農薬をまく農業をやってしまうと、結局、それらの農業生産資材を売らない、買えないとなったら終わり。首根っこを捕まえられてしまうことになる」。依存と服従の裏表の関係を解消することが狙いだった。

自立支援でネグロス島を奔走していた宇野さんはやがて、自立とは何かを自分自身に問うにようになっていった。自立には3段階ある。第1に、自活していける。第2に、自己決定権がある。第3に、それを社会のシステムとしてつくる。このことを自分で実現していきたいという思いが募っていった。そのためには、どこかに腰を据えなければならない。日本以外に選択肢はなかった。宇野さんには忘れられないエピソードがある。日本の高校生とフィリピンの高校生が交流したときのことだ。日本の女子高生が「自分たちには何ができますか。何を支援できますか」と尋ねたところ、「自分の国を変えてください」と返答されたのだった。貧困の背景には、繁栄を謳歌する先進国が途上国を収奪するという構造があった。

若者のロールモデルになる

風を知った土の人になろう。今から14年前、45歳で会社を辞め、知人の紹介で黒沢集落に移住し、遊休地を借りて"農ある暮らし"を奥さんと始めた。人間も植物も基本は一緒。だから、百姓は医者と同じで野菜たちに処方箋を出すことが仕事だと、宇野さんは考えている。「いい空気、いい水、いい食べ物があれば人間も健康に育つ。百姓は野菜の健康状態を観察し、何が足りないかを見定め、必要なものを与えるだけ」。

伊賀市内で農家をしている若者にいくらあれば生活できるかを聞いたら、「月20万円あれば安心して暮らせる」と言われた。宇野さんの会員制参加型農業「RURA」の会員は現在40名だが、野菜コースの年会費5万円で会員が200人になれば1000万円集まり、粗利3割でこの若者が食べていけることになる。まずは自分がモデルになり、市内に同じでモデルでやっていく10人の若い百姓を生み出したい。そうなれば、2,000人の市民が会員になっている。伊賀市には2万世帯あるので、10世帯に1世帯が農的暮らしをしていることになる。そうなれば、民主主義も変わるんじゃないかと宇野さんは期待している。

わがまま民主主義からの卒業

宇野さんの目には、今の民主主義は負担と給付のバランスを考慮せずに安易に利己的な要求を突きつけるだけの「わがまま民主主義」に映る。宇野さんの田畑に訪れた会員たちは、実際に体を動かしながら自然に働きかけることで食べものを育て、自分の体をつくる食べものと自然(森、川、田畑)との関わりを学ぶ。それまで、農村が持つ多面的機能維持のための税金投入について、「農村なんて自分には関係ない」、「税金をとられる」、「仕方なく払う」という意識だったのが、自分の体を守るために、自分たちも負担して農村を守っていこうという当事者意識に変わっていくのを目の当たりにした。

自分の暮らしと自然との関わりを知れば、意識が変わり、考え方が変わり、行動も変わる。そうした人々が増えれば、プレーヤーの質が変わり、民主主義も変わる。さらに、物事の裏側が見え始めると、先進国の繁栄を間接的に支える途上国の貧困という見えない関係にも気づくだろう。また、人々の幸福に対する画一的な価値観も多様化することになると、宇野さんは予測する。「今までは経済発展というステレオタイプの幸せを信じていたが、発展するってどういうことか、自分たち一人ひとりで考えていくことになる。幸せは一人ひとりの暮らしにあるのだから」。

故郷とのつながり

山から里へ獣が降りてきている。自分たちの食べものがつくられている場所で今どんなことが起きているか、自分たちのこととして想像できるような仕組みをつくりたい。そんな宇野さんの思いに共感して仲間になった会員は、会員募集でこう呼びかける。「異常気象や獣害は、生産者だけが負うのではなく、シェアしていこう。お互いの暮らしを想像しあえるかたちをつくろう。作業はいけるときに行き、会の畑でとれたものは、すべて、会のメンバーで分かち合おうというもの。宇野さんは私たちのいわばホームファーマーだ」。

また、他の会員は会報誌に次のような声を寄せた。「自給を分担する、という言葉。かっこいい言い回しではないですが、胸に手をあてて振り返れば、そこにはかつて抱いた憧れの心が息づいています。美しい里山で農薬を使わずに育てられた野菜をいくらの値段で買おうか、といった話ではありません。私たちは、今すぐに自分の畑はムリだけど、わずかずつでも自給に近い、農に近い暮らしの手段を持つにはどうしたらいいかなぁ、といったあたりに心が魅かれています。焦がれるように根源的に、求めてやまない故郷への回路が、細々とでもいいから、つながっていることを確かめるにはどうしたらいいだろうと」。

今、東京では土や海とつながる故郷を喪失した都市住民が増加の一途にある。30年後には帰省ラッシュもなくなると言われている。そんな中、宇野さんの田畑に通う会員の都市住民は、自分が忙しくて訪れることができないときでも、子どもだけを送り込み、田畑で泥んこになって遊んだりしている。地縁血縁はないが、まるで親戚付き合いのような関係を紡いでいる。子どもたちにとっては将来、ほとんど故郷同然になっているだろう。今の自分たちだけでなく、未来の子どもたちにとってもよりよい暮らしを目指した取り組みを続けたいと考える宇野さんは、新規会員募集要項の終わりに、宮沢賢治の「花巻農学校精神歌」の一節を付していた。

我等ハ 黒キ 土ニフシ マコトノ 草ノ 種マケリ

2015.11.2  高橋博之

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