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生きることは《あいだ》にある

先日、パタゴニア社内で講演してきた。

人工知能などのデジタル世界は、すべてをゼロと一で書ける。だからなんでもコピーできる。もともとあった変化が絶えない自然、差異に満ちた自然の世界に抗うように、世界は「同じ」に向かっている。合理性や効率性だけを求めれば、自ずとこうなる。永久に変わらないもので満ちた世界の終着点は、死なない世界である。デジタルは情報を完璧にコピーしてクラウドに置くことで、すでに情報が死なない世界をつくり出し、そこに人間の脳を接続すれば人間も死ななくなると、世界の科学者や事業家は不死の世界をつくることに躍起になっている。

そのような世界に果たして“生きる”は存立し得るだろうか。それが、パタゴニア社員に投げかけた問いかけであった。

世界のすべての物事は、エントロピーが増大する方向に進むという熱力学第二法則がある。部屋は放っておけば散らかるように、秩序は常に無秩序へと向かう。私たち人間の体もこの法則から逃れられない。細胞の酸化やタンパク質の変性など、エントロピー増大にさらされ続けると、人間の体は死に向かう。そうならないように、生命は先回りをして自ら細胞やタンパク質の分子を壊し、分解し、食物として摂取した分子と置き換えることで、エントロピー増大を回避している。この分解と合成の繰り返しが、生きるということなのだ。だから、食べることは生きることなのである。

分解と合成の関係は、単に過去をもとに未来が作られるというAI的なアルゴリズムの世界にない。先回りして分解するということは、未来が過去に先駆けることで時間を生み出しているということだ。つまり生命は、Aが起こればその結果としてBが起こるといったような因果律的な機械のようなものではないということである。生命は、同時的、散発的、逆限定的に立ち現れるただ一回限りの絶対現実の連続という現象なのである。

生まれてから死ぬまで、私たちの体は食べることを通じて、こうして同時的、散発的、逆限定的に、絶え間なく変化している。私たちの体は3日前と微妙に違うし、1年も経てばまったく別人である。鴨長明が方丈記の冒頭で語った「行く川のながれ」のように、私たちの体も常にながれの中にあり、一瞬たりとも同じ体ということはない。今この瞬間の私という存在は、38億年の生命の歴史の中にたった一度だけ起こった唯一無二の現象なのである。かけがえないがないからこそ、価値があるのだ。「同じ」世界に、このかけがえのなさはない。

やがて私たちの体も老化し、分解と合成のスピードが衰え、エントロピーの法則に追いつかれ、追い越されるときがやってくる。それが、人間という個体の「死」である。しかし、私たちは「死」を迎える前に、新たな命をこの世界に産み落としている。彼らもまたエントロピーの法則に追いつかれないように、分解と合成を繰り返す人生の航海に旅立つ。こうして命はつながっていく。そして、個体の「死」を迎えた私たちの体の分子は、巡り巡って微生物や虫、動植物、木、岩の一部の分子と置き換えられ、地球を循環しているものの中に受け継がれていく。

唯一無二である私の「今」の中に38億年の悠久の歴史があり、38億年の悠久の歴史の中に唯一無二である私の「今」がある。だから、私たちは躍起にならずとも、すでに不死なのである。逆に躍起になってデジタルで不死の世界を目指すほどに不死から遠ざかり、“生きる”ことからも遠ざかるというパラドックッスに陥る。ゼロと一の《あいだ》には限りない点があり、無限の世界が広がる。私たちの“生きる”は、差異に埋め尽くされてなお果てのないゼロと一の《あいだ》の一点にこそ、存立し得るのである。

繰り返す。生きることには《あいだ》がなければいけない。

このことは、人間関係についても言えるのではないだろうか。私とあなたの《あいだ》にこそ、生きることは存立し得る。例えば、私が荒野にひとりぽつんと立っているとする。それは、生きていることになるのだろうか。自分と自分以外の誰かがいたとき、そこから“生きる”が始まる。「相手がこう動いたら自分はこう動く、すると相手もこう動く」というように、相互作用で動き、動かされる、その複雑形が生きるということなのだ。だからこそ《あいだ》が大事なのである。

他者と関わることでこそ《あいだ》は生まれる。今の社会は界面活性剤化し、《あいだ》がないツルツルの人間関係が広がっている。摩擦がないから熱も生まれない。そして、ここには“生きる”が立ち上がってこない。このことは、私たちの体を構成する細胞についても言える。細胞は周囲の細胞と物質・エネルギー・情報を交換する、すなわち細胞同士のコミュニケーションによって前後左右上下にある細胞との関係性が生まれ、そこではじめて自分がなるべき細胞を自ら規定することができるという。周囲の細胞と関わりが持てないと、なにものにもなれず、ただ増えていくだけの癌細胞になる。細胞が生きるためにも《あいだ》が必要なのだ。

翻って私たちの暮らしや社会を見つめ直すと、いつの間にか多くの《あいだ》を失ってしまっていることに気づく。自然を排した都市で暮らす私と自然の《あいだ》もない。関わりがなければ関心を持てない。だから、環境汚染や地球温暖化は止まらない。大規模流通で食べ物の裏側が見えなくなった私と農家の《あいだ》もない。だから、農家は買い叩かれて減少の一途にある。98.6%の消費者と1.4%の生産者の分断は、そのまま都市と地方の分断につながっている。東京一極集中の裏側で進む地方の農漁村の衰退。人間が生きるために必要な食べ物や空気、水を生み出す自然に手をかける人間が減っているというのに、都市住民はまるで他人事のように無関心を決め込んでいる。都市と地方の《あいだ》がなかったからこそ、震災後、あれほどまでに「絆」を声高に叫ばなければならなかったのではないだろうか。

私たちは暮らしや社会に《あいだ》を取り戻す必要があるのではないだろうか。ツルツルの関係を、ごにょごにょの関係に変えるときではないだろうか。確かに関わることは煩わしいかもしれない。しかし、煩わしさから逃れるために、生きることを手放す、あるいは自らの生存基盤を脆弱化しているとしたら、なんとも頼りない“生きる”ではないだろうか。生存実感の喪失、ネットワーク貧困、少子化と人口減少、東京一極集中と限界集落、医療費増などの問題は、私と自然、私とあなた、私と社会の《あいだ》がツルツルになったことに起因している。これらをごにょごにょの《あいだ》に変換しうる装置が、誰にとっても身近な「食」であり、「食べることは生きること」の再設計なのである。

文=高橋博之(東北食べる通信編集長)|2018年04月12日

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