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「救済」から「幸福」の時代へ

「これって、もしかして博之さんのことじゃないですか?」と、知人から最近、ある新聞記事が送られてきた。2007年の6月定例岩手県議会で、県政運営に「幸福度指標」の導入を求める議員の一般質問を知事がかわしたということが書かれてあった。そう、確かにこの議員とは私のことである。そしてあれから11年経った今、この県議会への置き土産が物議を醸しているらしい。

岩手県は、この先10年のビジョンとして定める新総合計画の柱に、なんとあの「幸福度指標」を据えたらしい。同計画を審議した昨年12月の委員会では、「健康寿命」や「余暇時間」「待機児童数」など指標選定の妥当性について議員から疑義が相次ぎ、「幸福」論争が延々8時間に渡って繰り広げられたと、記事は伝えていた。

ことは岩手に限った話ではない。世界では今、幸福に関する研究や議論がにわかに注目を集めている。個人の幸福追求が社会の最大のテーマに浮上するほど、世界は豊かになったということの裏返しだと思う。世界の観光地はどこもかしこも観光客でごった返している。それだけ人々に余裕ができたということだろう。

20世紀の人類の最大の課題は、「飢餓、伝染病、戦争」であった。多くの人は天寿を全うできずに早死にしていた。しかし今、テクノロジーの力によってこれらの課題は掌握されつつある。今や、餓死よりファストフードの食べ過ぎで死ぬ人の方が多い世の中になった。戦争やテロで命を奪われるより、自ら命を絶つ人の方が多くもなった。大半の人が天寿を全うできるようになった21世紀、人類の最大の課題として新たに設定されつつあるのが、不老不死である。もっと長く生きたいとの欲求が、そこかしこで鎌首をもたげる。

その前哨戦ともいえる「人生100年時代」の到来を前提とした制度設計や商品開発が、官民あげて焦点となっている。しかし、この喧騒には決定的に欠けている議論がある。何のために100年生きるかを誰も語らないのだ。もし幸福を感じられない日々がただ延長するだけなら、それは生き地獄に違いない。寿命を延ばすことだけが先行し、どう幸福に生きるかの議論がおざなりにされている背景には、質より量に執着するGDP神話があるように思われてならない。

GDPという指標が開発されたのは、100年前の恐慌時代の只中にあったアメリカだった。「どれだけモノを作れるのか」という調査が基礎となって開発されたこの指標は、やがて豊かさを示すモノサシとなっていった。量を増やすことが至上命題とされた物不足の時代にあっては、有効に機能した指標だっただろう。しかし今の日本は、供給過剰が長く続く超モノ余りの時代である。もはやGDPというモノサシ自体が意味をなさず、無用の長物と化してしまっているのは明らかではなかろうか。

その意味で、岩手県の幸福度指標の導入という挑戦的な試みは、時代の変化を捉えた適切な対応だと思う。一部では、牧歌的だとの批判の声もあがっているようだが、「救済の時代」から「幸福の時代」に頭を切り替えられずにいる方がよほど牧歌的だと言いたい。《死》から遠ざかるほどに問われることになる《生》の軽さに、果たして私たちは耐えうるだろうか。それは、私たちが幸福とは何かという問いに向き合い、解を出せるかどうかにかかっていると思う。すなわち、生きることの意味への解だ。

空虚に支配されつつある「生」を充溢させていくためには、関係性が必要である。他者との交歓や自然との交感は、乾いた「生」を直接に潤し、充溢させる。こうした関係性を通じて得られる幸福は、それほどお金やエネルギーを必要とせず、大規模な地球環境破壊も必要としない。つまりは永続する幸福だ。友人と結びつく"食"、自然と結びつく"農"は、そうした幸福を手繰り寄せる舞台となりうるだろう。



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