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ひろえっちの本質ノート#3 「難しい」って何なんだろう?

我が家において「難しい」は炎上ワードww

無意識に言ってしまう「難しい」という言葉。
私がこれをうっかり言ってしまおうものなら、ダンナさんからツッコミの嵐!(笑)
「どういうところが難しいの?」
「それはどうやるとクリアできるの?」
「それって『手間がかかる』ってこと?」
などなど、結局最後は「こうすればできる」を言わされてしまう、という感じなのだ。

一体「難しい」って何なんだろう?

とりあえず国語辞典を引いてみるとこんな感じだ。

理解や習得がしにくい。複雑でわかりにくい。難解である。
解決するのが困難である。
実現するのが不可能に近い。
状況などが込み入っていて、対処するのがやっかいである。
人の扱いがめんどうである。
好みなどがうるさい。
不機嫌である。
不愉快である。うっとうしい。
むさくるしい。きたない。
10 気味が悪い。

たぶん、8・9・10は「古語」だろうなあ。「源氏物語」かなんかでみた記憶がある程度。
おそらく、1〜3が使う頻度が高いんだろうと思うので、主にこの3つについて考えてみよう。

「わかりにくい」=「難しい」でいいのか?

私の特技は「難しいことをわかりやすく解説する」こと。
役所勤め時代からこれは得意だったらしく(当時は自分では認識してなかったけど)、褒められることも多かった。
ある時、霞ヶ関の某官庁に説明に行くときのことだったが「キミの説明はわかりやすすぎる。今回は国の役人をケムにまかなくちゃいけないんで、○○君を連れてくことにしたからね」と言われて、大笑いしたことがあったなあ。
こりゃ、褒められてるんだか何なんだかさっぱりわからないww
しかし「わかりやすい」は気をつけないと「正確性」とトレードオフを起こしかねない。
一般的に馴染みのない専門用語を理解してもらおうとするとき、日常的に使われている言葉に置き換えて「○○のようなもの」とやってしまうと、正確性を損なうことは明らかだし、かといって、噛み砕くとなると、やたらと説明が長くなってしまったりもするので、今でも、言葉の表現には慎重になることも多い。

じゃあ「わかりにくい」はなぜ発生するんだろうか?
私が過去に「全然わからない」と思ったものはたくさんあって、特に、高校に入ってからの数学は、まさに「ちんぷんかんぷん」だった。
当時付き合っていた彼氏は数学や物理が得意な人だったので、毎度、放課後に教えてもらってたけど、本当にさっぱりできるようにならなくて、呆れられてた。
あ、単に一緒にいることが楽しかっただけだから、彼氏に教えてもらわないほうがよかったのかな(それはどうでもいいww)。

数学のようなものは、基本から応用まで積み木のように積み上げていかないと理解できないので、おそらく私の場合、小学校くらいのどこかの段階で「概念形成」がうまくいかないまま、無理にその先を進めたことが「わからない」の原因だったのだろうと分析している。
なので、もしかしたら、本当に基本的なところから学び直せば、大学の高等数学もわかるのではないか?と思った時期があり、やってみようかと考えたのだが、それが「やりたいことなのかどうか?」と考えたら、やっぱり違ったので、それはやめたのだった。

あと、今でも忘れられない「わからない体験」の最上級のやつは、国家公務員一種試験の問題。
「記念受験か?」と笑われたけど、天文学的確率でも、受かるかもしれないと思って、経済職の試験を受けてみたんだけど、めちゃくちゃびっくりした!
「問題の文章の意味が全くわからない」という事態に遭遇したから。「これ、間違いなく日本語だよね?」と思いながら、何回も読み直すんだけど、これぞ本当の「意味不明」だった。
それまで、試験では「答えがわからない」ことはあったけど「問題の意味がわからない」を初体験して、世の中には本当にわからないことだらけなんだなあと、妙に感慨深く、もちろん、真っ先に途中退席して帰ってきた。

「わかる」とは「分ける」だった

語源からして、私たち人類は「細かく分けていけば理解ができる」と思っていたんだと思う。
確かに、長い文章も細かく分けて、言葉を一つずつ吟味し、分解して構造を見ていけば、理解ができることも多いから。
ということは「難しい」を分けていけばいいのではないか?
難しいと感じていることを「要素」に分解していくと、何に「難しい」と感じているかがわかり、それを一つ一つつぶしていくと、難しくなくなって「できる」になるよね、と。
実は、私がうっかり口にした「難しい」に、無限ツッコミ(笑)をしてくるダンナさんと会話をしているうちに、大抵の場合、私の中で「あ、できるじゃん」って思うのだ。
まんまとダンナさんの思う壺にハマっていることになるけど、結局、クリアできるんだから、悪くない話だしね。
そう思っていたら、つい最近、画期的な考え方を知った。

できる水準をクリアする「パラメータ」を理解すること

EMSの学びで、最初の衝撃(いい意味で)の一つが「難しい・できない」という状態から「わかる・できる」状態になるには、明確なプロセスがあって、それには「わかる・できる」に必要な「パラメータ」を埋めていけばいい、という考え方。
だいぶ前のことだけど、小学校の低学年の子どもたちと外遊びをして、子どもたちと一緒にカレーライスを作る、ということをやったことがあった。
なるべく手出しせずに子どもたちだけでやってもらってたんだけど、いちいち「えー、できなーい」「難しい〜〜」と言ってたのを思い出して、EMSで知った原理を当てはめてみるとこんな感じだ。

カレーを作れるためのパラメータにはいくつかあって、そのときの状況を思い出すと、まず、カレールーの箱に書いてある説明に漢字が入ってて、1年生の子どもには読めない、というのがあった。
家でお手伝いをしているから、ピーラーを使った皮剥きはできてる子もいたし、たぶん「かき混ぜる」という作業は体験済みだったり、お米も炊いたことはあるようだったけど、計量カップで水を測る、というのはよくわかってない感じだった。
つまり「できる」ラインにそれぞれのパラメータが十分揃っていないので「難しい、できない」と思ってしまっていたわけだ。
じゃあ、この「ギャップ」を埋めていけば、全部一人でできるようになる、ということになる。

これは、すべてのことに応用が可能!
この説明を聞いたとき「こんな当たり前のことに気づいてなかったなんて」とも思ったけど、よく考えたら、まさにウチのダンナさんの「無限ツッコミ式コーチング術」(今ネーミングをテキトーに考えたぞ)は、このギャップを1コずつ埋める作業をしてたのか、とわかる。

「上達」にも「原理」がある

この「できるパラメータ」を埋める作業を意識すると、かなりのことが短期間でできるようになっていくのではないだろうか。
でも、そのためには、自分の「現状把握」が客観的かつ正確にできてないといけない。自己客観視だ。
これは頭では絶対に無理で、自分の身体の状態を「セルフモニタリング」できることが重要になる。
「身体思想家」の方条遼雨さんの『上達論』を読むと、そこのところがすごくよく理解できる。

私たちが必要以上に物事を難しくしてしまっているのは、自分自身の状態が理解できていないところに原因があるんじゃないか、と、この本を読んでから思うようになって、今、いろいろ試してみているところだ。
とかく、何かが「できない」とき、私たちは、がっかりしたり悲しくなったり恥ずかしくなったりと、無駄な「感情」を使っていることが多いけど、この感情というものも、どちらかといえば「身体」にくっついているもので、身体の無駄な力を抜いてほぐしていくことで、頭の中のややこしさもほぐれていく感じを最近すごく実感するようになった。

例えば、ピアノの弾き語りを練習していて、うまくいかない箇所にぶち当たった時、以前は闇雲に回数をやる練習だったのが、今は、一旦立ち止まって「さっき起きた事故はどういうものだったんだろう?」というのを身体感覚で感じてみて、違和感のあるところを調整する、という練習方法に切り替えたところ、楽譜を見ている視覚と声を出すことと指を動かすことのバランスが取れるまでの時間が短くなっていくのがわかるようになった。

身体性を回復すると「難しい」は減る

というのが今の私の中の結論。
私たちは、思考優位、頭脳偏重になりすぎて、本来の身体の偉大さを忘れかけているのかもしれないなあと思う。
身体は本当に賢くて、優秀なんだよね。
これ、もうちょっとコーチングとかでも取り入れられたら面白そうだなあ。やっぱりみんな「難しい」って連発するんだけど、パラメータを見つけ出して、身体性を活かしてギャップを埋める作業ができたら、なんかすごくいい感じになるんじゃないかな、と、ワクワクしてくる。
なんなら、最近、毎日「この作業の上達に必要なパラメータは何だ?」とか考えてたりして、ホント、面白い!!
差し当たり、今必要なことは、お掃除をしたくなるために必要なパラメータを見つけ出すことなのではないかと思いながら、駄文を書き続けている私であるー《完》

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