手塚治虫,ブラック・ジャック「ブラック・ジャック病」より/シニフィアン誘拐と接続関係
〔このnote記事では、手塚治虫「ブラック・ジャック病」(『ブラック・ジャック⑭』(秋田文庫,1996)所収、『ブラック・ジャック トレジャーブック』(秋田文庫,2008)所収)の内容に触れますので、まだお読みでない方はご留意願います〕
1 はじめに
人が大事にしているもの、これに傍若無人に手を突っ込み奪い去る。するとこれを取り戻そうと猛然と追いかける。相手の思うつぼである、がそうする他はない。追いかけ、ついに追い着いた先にはいったい何が待っているのか。
今回は、上記の点などを記号論の初歩的知識も踏まえつつ、手塚治虫『ブラック・ジャック』の一話「ブラック・ジャック病」の物語を通して考えてみたいと思います。
手塚治虫『BLACK JACK 第14巻』(秋田文庫,1996)
手塚治虫『BLACK JACK Treasure Book』(秋田文庫,2008)
*上記2冊の所収はバージョンが異なりますが、このnote記事では第14巻のものを参照します。
2 物語の起点
3 シニフィアン誘拐と接続関係
(1)攫われた、取り返しに行く
テレビの刑事ドラマで、身代金目的に子どもが誘拐されるという恐ろしい光景はありふれたお馴染みの場面ですが、名前が誘拐されたので犯人を捕まえるために刑事が走り回る、というドラマは私の狭い視聴経験と乏しい記憶にはないところです。
自分が心から大事にしているもの、手をかけ時間をかけ育んできたもの、独自に温めて培ってきたもの、これと自分が緊密良好な関係を築いて大切にしてきた、その紐帯に、忍び寄る魔手が鋭角で侵入し一気に引き剥がしていく、というのが「暴力」の範型イメージです。そのため、この典型例としての誘拐は、子どもに何らの精神的・身体的危害が加えられないとしても、その親(ないし保護者)へ暴力を加えたことになります。親はどのような方法を使ってでも決死の思いで子どもを取り戻そうとするでしょう。
さて今回の物語では、ピノコが誘拐されたのでブラック・ジャックが助け出しに行くというのではなく、自分の名前が勝手にある病気に付けられてしまったので、それを止めさせるためにアフリカまで行く、というものです。なぜ行くのか。それは比喩的に、大事な自分の名前が誘拐されたから名前を解放しに行くのだ、と言っていいかと思います。
アナロジーを働かせつつ、記号論の初歩を踏まえてこの物語を解析すると、たいへん見通しがよくなりますので、以下ではその構造をすこし見ていきましょう。
(2)「ブラック・ジャック」という記号
a)シニフィアンとシニフィエ
〈ブラック・ジャック〉という音、あるいは文字、これは記号論では〈シニフィアン〉(略語記号「Sa」)といい、記号表現と訳されたりもします。他方、この〈ブラック・ジャック〉という音とか文字が意味しているものを《シニフィエ》(略語記号「Sé」)といい、「Sa」が表している《ブラック・ジャック》という意味内容の概念、観念をさします。そして「ブラック・ジャック」という記号は、この「Sa」と「Sé」が接続されて紙の表と裏のようにくっついている、と捉えます。
私たちは「ブラック・ジャック」という音を聞き、その字を読むと「ああ、あの孤高でカッコいい天才外科医、手塚治虫が生み出したあのキャラクター、あるいはその漫画のことだな」という観念なりイメージが浮かびます。
他方で、同じように「ブラック・ジャック」という音を聞き字を読んで、「トランプを使ったあのカードゲームのことだな」という観念なりイメージが浮かぶ人もいるでしょう。この場合は同音異義ですからしかたありません。一つの「Sa」に複数の「Sé」が接続されていて、コンテクストによってどの「Sé」が呼び出されるかが決まる、という記号作用の造りです。
しかし、ある「Sa」にある特定の「Sé」が接続していて、その紐帯を有している者にとって、その接続が勝手に替えられることは耐え難いことです。
b)接続替え
自分の名前と最も緊密良好な関係を保ち、その紐帯を大切にしているのは、やはりその人自身でしょう。ブラック・ジャックは、〈ブラック・ジャック〉という名前のシニフィアンを、《ブラック・ジャック》という自身の人物概念のシニフィエにピタリと接続している、この記号作用を大事にしているわけです。
ところが、この接続を乱す行為がなされます。クーマ医師による命名行為です。
クーマ医師が今回の病気の第一発見者かどうかはよく分かりませんが、もっとも熱心に取り組み対決してきた人物であることは間違いなさそうです。その彼が、当該病気に「ブラック・ジャック病」と名付けました。名前は金庫に閉じ込めておけるようなものではありませんので、〈ブラック・ジャック〉というシニフィアンを利用することは誰にでもできてしまいます。そして、クーマ医師はこれを自身が身命を賭する病気に接続させてしまうのです。
しかし、ブラック・ジャックとしては、自分の名前を勝手に訳の分からない病気の名前にされてはたまったものではありません。「俺の名前は、俺という人間のシニフィエに接続されているのだ。勝手にその接続を変えるな」と言いたくなって当然です。そこで、クーマ医師が勝手に接続させた関係性を切断して〈ブラック・ジャック〉というシニフィアンを解放しに行く、というわけです。さて行った先には何が待っていたか。
4 帰結
しかし、手塚治虫のストーリー展開はやはり尋常ではありません。
前述しましたように、ブラック・ジャックは当初は自身の誇りある〈ブラック・ジャック〉という名を取り戻すために、つまりは〈ブラック・ジャック病という名〉と《ブラック・ジャック病概念》との接続を切り離すことを目的に現地に行きます。その前提は、ブラック・ジャック病と私とは「関係ない」(同書264頁、270頁)ということです。
ところがそこで遭遇するのは、この病気により死亡したクーマ医師の妻と、クーマ医師の真摯な姿でした。するとブラック・ジャックの心の中で何かが変容します。
ブラック・ジャックは、最後にはクーマ医師が勝手に行った前記接続を許し(ラストの台詞)、しかも、名前を勝手につけられたその対象たる病気を、「自分の名前がついているがゆえに治療する」という別様の意味コンテクストに再編成し、勇猛に執刀に取り掛かることになるのです。
【雑多メモ】
・言語のシニフィアンは音や文字であることから分かるように、聴覚や視覚によって知覚されることを要するというマテリアルな側面を持つ、というよりマテリアルがないと存立できない。むしろ記号のマテリアルな側面をシニフィアンという、と言ってもよい。その点からすると、「学名は簡単には変えられない…」「一度命名した病名は雑誌に発表されて 登録されるんじゃ ブラック・ジャック病も登録されとる」(同書261頁)との記述は、記号のマテリアルへの化体という観点、つまり《ブラック・ジャック病》概念が、雑誌に掲載されることにより、〈ブラック・ジャック病〉という名前を得て身体を備えた、という経緯をよく示しているとみることもできる。
・「ところがそこで遭遇するのは、この病気により死亡したクーマ医師の妻と、クーマ医師の真摯な姿でした」。つまり、透き通るように分節された「個」を見た、「個」の戦いを見た、ということです(曖昧不透明な集団が闊歩し暗闘する場ではなかった)。ここに、孤高のブラック・ジャックの心に響く何かがあったのではないでしょうか。
・クーマ医師は助手として妻がいたが、当該病気を相手に孤独な戦いをしていて、いわばこの病気との関係で個別具体的な関係性を有していた。妻が亡くなり本当に一人孤独となった。そこにブラック・ジャックが来る。そしてクーマ医師も亡くなってしまう。すると当該病気だけが主を失ったように浮遊する。ブラック・ジャックは一度帰国しようとするが、クーマ医師の手紙が「引き継いてください」と遺言のように言っているように見えてくる。そしてそれを受け入れることにする、つまりは相続する。ふわふわと一時浮いてしまった当該病気は、クーマ医師の全力対峙の対象から、今度はブラック・ジャックのメスの対象へとその接続関係が編成され直されたのだ。
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