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メモ書き 例解:アブダクション/引照基準たる範型・範例、徴候的読解、シャーロック・ホームズの推理学を補助線にして

1 はじめに


C.S.パースのアブダクション(abduction)についての自分なりの把握を、下記note記事を素材として例解する。


2 アブダクション


アブダクションは、逆行推論、遡行推論、仮説推論、仮説形成等々と翻訳されている。

推論形式は次のとおり。

(1)驚くべき事実Ⓒが発見される。 Ⓒ
(2)しかしⒶならばⒸである。   Ⓐ→Ⓒ
(3)故に、Ⓐである。       ∴Ⓐ

アブダクションの論理形式

当然のこととして、アブダクションは論理必然性を証明しない論理形式である。既知から未知を発見するための探求の論理学とされる。


3 「Ⓒ」についての着眼点


この論理形式で着目すべきは、(1)の「驚くべき」である。驚かなければ論理形式が始動しないことを意味する。驚かなければならない、ではどうやって?

永遠の名探偵 シャーロック・ホームズは、ワトスンを驚かす前に自分が驚いているはずである。

パースの論理学を援用してさらに言うならばホームズの観察とはそれ自体ある種のアブダクションであり、それは演繹法や帰納法と並んでまことにかくれのない論理的推論の一種なのである。

トマス・A・シービオク/ジーン・ユミカ=シービオク「僕の方法は知っての通り――パース対ホームズ」ウンベルト・エーコ/トマス・A・シービオク編『三人の記号 デュパン,ホームズ,パース』15[33]頁,東京図書,1990

下記も参照。


まずは基本である。諸項の接続秩序が「A→B→C→」と来て、「ああ、次にDが来るな」と思っているところに「D」が来ても、驚きはない。Dが来るなと思っているのに「S」が来るから驚くのである。

次に応用をみる。諸項の接続秩序が「e→P→N→a→」と来て、次に何が来るかとんと分からないときに、「D」が来ても驚きはない。何が来るか分からないときに「D」が来ても、驚きは生じようがないからである。

しかし、この場合においても驚きが生じる場合がある。事前に、「e→P→N→a→K」という諸項の接続秩序の範型・範例を十分に身につけている場合である。この場合は、「e→P→N→a→」を見れば、次には「K」が来るかなと思うことができる。それなのに、「D」が来るのであるから驚きが生じることになる。

つまり、Ⓒを「驚くべき」ものとするのは、事前に自分の中に整理・編成されている範型・範例の存在であり、しかもそれらは自身において周到に吟味省察を経て十分に身についている必要があるということになる。十分に身についていなければ、必要なときに想起して使ってみようとは思えない。そして、向かうべき対象は無数である以上、範型・範例は蓄積を要するのであって、質のみならず量の問題を軽視することができない。

範型・範例は、当該対象に対する引照基準となる。そのため、その準拠枠からの差異を感知することができる。そして、その差異の程度、つまりはどの程度、範型・範例からずれているか、どの程度違っているかという偏差の分析が可能となる。

意外な差異を感知し、あるいは差異の程度が大きければ、それだけ大きな驚きを生むだろう。

*なお、シャーロック・ホームズは自分が関係した事件の記録が失われることを極度に恐れ、書類をため込んでいる(コナン・ドイル「マスグレーヴ家の儀式」『シャーロック・ホームズの思い出』174頁,新潮文庫,2010)。事件記録を整理するのは1年に一度か二度に過ぎないが(同頁)、「煽情文学と犯罪記録には特異の知識を有し」ており(同「オレンジの種五つ」『シャーロック・ホームズの冒険』213頁,新潮文庫,2021)、常に事件記録を整理整頓していなくても、彼の中では過去に扱った事件の内容が事前に整理・編成されており、目の前の事件に対したときに、引照基準たる範型・範例となって鋭敏な推理を補助したことはほとんど疑いないと思う。例えば、「こういう徴候を見かけるのは、これがはじめてじゃない」(コナン・ドイル「花婿失踪事件」『シャーロック・ホームズの冒険』109頁,新潮文庫,2021)と言い、ホームズは、「事件といえば、これはいっこうに珍しいものじゃない。僕の索引をくってみたまえ、一八七七年にアンドーヴァーの町でおなじような事件があったし、オランダのハーグでは去年も似たようなことがあった。趣向はふるいものなんだ。もっともこんどのは二、三、目あたらしい点がないではないけれど、…(以下略)」(同123-124頁)として、目の前の事件と比較検討するため引照基準たる範型・範例の諸事件を想起している。


4 「Ⓐ」についての着眼点(Ⓒと関連し)


次に(2)のⒶについてである。これが唐突に発生しているように見える、から私たちはホームズの鋭敏な推理に感嘆することになる。

どうやってⒶという仮説を形成するのか。

法律家の世界であれば、それは「経験則」である。いわば諸項の常識的な接続態様のことである。つまり、範型・範例は、Ⓐの主要な、あるいは常識的な源泉でもある(ただ一般的に「経験則」は抽象的な範型・範例といえ、物語やエピソード、裁判例などの具体性の高い範型・範例とのグラデーションを意識すべき)。しかしこれは常態的な人々の思考であって、それほどの新味はなさそうである。だれでも気づくようなⒸからは、常識的なⒶしか形成できない。それは皆が見ている現実であり、別様の認識への開けはない。


ここでは「徴候的読解」を提示する。

表面的諸現象を説明してくれる深奥な関係が存在していることを確認するには、そのような関係を直接知ることは不可能であると認めなくてはいけない。現実は不透明ではあるが、それの解読を可能にしてくれるあるポイント ― すなわち、手がかり、徴候 ― がある。こうした考え方は、推測的ないし記号論的パラダイムの核心にあるものだ…

カルロ・ギンズブルグ「手がかり ― モレルリ,フロイト,シャーロック・ホームズ」ウンベルト・エーコ/トマス・A・シービオク編『三人の記号 デュパン,ホームズ,パース』113[153]頁,東京図書,1990

なに、初歩さ。推理家が、はたのものには非凡にみえる一種の効果をあたえ得るのは、はたのものが推理の根底になる小さな事象を見おとしてくれるからだということの一例だよ、これは。

コナン・ドイル(延原謙 訳)「背の曲った男」『シャーロック・ホームズの思い出』214頁,新潮文庫,2010

独自のⒶを形成するには、小さな事柄、微細な点、すなわち「徴候」を見いだす必要がある。なぜなら、金太郎飴のようにどの側面を切り取ってもそこには真実が表現されているように「神は細部にも宿る」のであるから、わずかな徴候に事態の真相を示唆するものが小さく煌めいているからである。その徴候の存在なり発生なりを説明可能とするようなⒶは、その徴候の小ささに反比例するように独自性のある論理構造をとることになる。


5 創作「忠相回想」による例解


冒頭でリンクをはったnote記事内の「忠相回想」を素材に、上記を簡略に例解してみる。例解の対象は、熊五郎における諸観念の接続秩序である。

アブダクションの論理形式に整理すると次のとおり。

(1)自分の懐から出て行ったという点では同じであるのに、驚くべきことに、熊五郎は印形と書付けは受け取ったが、三両は突き返した。

(2)印形と書付けは熊五郎にとって不代替物として「大事」なものであるが、三両は銭であって「代替可能な媒介物に過ぎない」という認識であったのであれば、(1)を説明できる。

(3)よって、「印形と書付けは熊五郎にとって不代替物として「大事」なものであるが、三両は銭であって「代替可能な媒介物に過ぎない」という認識であった」は肯定できる。

熊五郎の諸観念の接続秩序を解明するためのアブダクション論理形式


(1)について
自分が落とした物を拾って届けてくれた人がいたら、お礼を言って受け取る、というのがまずは原則的な範型・範例となる。経験則といっていい。

大岡政談バージョンでは、書付けはあるが印形は物語に登場しない。

古典落語バージョンについては例えばあるバージョンでは、「自分の懐から出て行ったものだからいらねえ」と言うのであるが、そうであれば印形と書付けも、三両とともに突き返すのが順当な接続である。またWikipediaにおいては、「印形・書付けは大事だからと言って受け取るが」という部分が省略されてあらすじの説明がなされている。

一般論に戻って考える。金太郎が拾ったのは財布であり、その中に印形・書付け・三両が入っていたのであるから、普通、受け取るなら財布ごと受け取って終わり、という流れであるはずである。ところが熊五郎は、印形と書付けは受け取るのであるから、わざわざ金太郎が持っている財布に手を突っ込んで印形と書付けを取り出すか、あるいは、財布ごと受け取ってから三両をとり分けてこれを金太郎に突き返す、さらにあるいは、財布ごと受け取って印形と書付けを取り出し、三両が入ったままの財布を金太郎に投げ返す、という作業をしたことになる。この作業はいずれにしろ相当に意識的である(ところで財布はどこに行った?)。

すると、これら複数のバージョンを引照基準たる範型・範例として対象を見てみるならば、「印形と書付けは受け取るが三両は突き返す」という部分がひときわ輪郭をもって存在感を放ちだす。そこで、これをⒸと析出する。

(2)について
今回の場合、Ⓒを(1)とするのであれば、経済学における一つの典型的見方である貨幣を媒介物と捉えるという視点、加えて法律家にとっては常識的な分類である代替物・不代替物の枠組みを使って、Ⓐの仮説を形成することは容易である(経験則を多少落語よりに変形)。Ⓒを徴候として、範型・範例の思考から仮説を形成した、という構造。

他方で、熊五郎はいわゆる江戸っ子気質で銭に執着しない、むしろ不浄なものと捉える人物像であって、銭は媒介物に過ぎないなどという意識は持ち合わせていない、という読みもできる(当然である。アブダクションは論理必然の推論形式ではない)。

しかしそうすると、今度は金太郎との差異が見い出せない。大岡政談バージョンの熊五郎(大岡政談では畳屋 三郎兵衛)は、三両を落としたので働いて稼ぐしかないとして懸命に仕事をする。これと金太郎は違う。出世したくない、銭があっては困る、そのために神仏に祈る人物である。であれば、両者を同一視するのではなく、異なる観念・意識をもつ「個」として読んでいくことが豊饒な読み方ではないか、と考えた。さらにそのように理解することで、大岡との意識の差異も強調でき、「三方一両損」が大岡の視点による損得「感情」であることも表現できた。


6 前提にあるもの


前提として、自分なりの問いを持っている必要がある。自分だけの問いがなければ、範型・範例を見いだすことも吟味省察することも蓄積することもできはしない。自分の感覚が反応しなければ、徴候になど気付きようがない。仮説形成もできない。

どうやって自分なりの問いを持つか。しかしこれに一般解はない。

心の自由を持つこと、自分の感受性を信じ、これを潰そうとするものに抵抗し、自分の心を慈しみ育むこと、他者に同じ心を見ること等が鍵になるのだと思う。



【雑多メモ】
〇見ているが観察していないとして、ワトスンが階段数を答えられないことを証左に挙げるホームズの名場面がある(コナン・ドイル「ボヘミアの醜聞」『シャーロック・ホームズの冒険』12-13頁,新潮文庫,2021)。彼は心でみろと忠告する。しかしホームズさん、それは無理な注文というもの。対象の情報量は一時においても原理上無限である。無限の対象(つまりは無限の情報量)を観察すること、省察すること、記憶しておくことは不可能である(開かれた心で、先入観なく、オープンな態度で、などと唱えてもさしたる効果は見込めない。意識とは、換言すれば認知の盲点とはそのようなものではない)。驚くべきⒸ、およそ徴候を捉える眼は、達観した瞑想者のように全情報吸収体になるような神秘主義的方法ではなく、独自の問いをもって対象に迫り切ること、そのために自身で整備編成してきた近位項体系、そのうちの典型の一つである範型・範例群を活発に動かしていくことで発揮される。
〇ホームズ自身の実践に鍛えられた諸事例から確度ある経験則を手にし、これを「未来行動」に利用した件としては、コナン・ドイル「ボヘミアの醜聞」『シャーロック・ホームズの冒険』45-46頁,新潮文庫,2021。
〇金銭が代替物であることにつき、山野目章夫編『新注釈民法(1)総則(1)』785頁(有斐閣,2018).
〇物的証拠(物証)に関し
1)徴候とアブダクションについては、注意すべき問題がある。それは、訴訟における「物証」との関係である。ホームズが刑事事件で犯人なり事件を解明するために、徴候からアブダクションを使って見えない背後事実を推測し、あるいは仮説を立ててあるべき証拠を探したりする際は、本note記事で書いたように範型・範例を活用しその偏差分析を行ったりすることは不可欠である。既知から未知を新しく発見していく過程のはなしである(探求の論理)。
2)他方で、訴訟での「物証」のシニフィアンとシニフィエを理解する場面においては、範型・範例思考を用いてはならないとされる(木庭顕『笑うケースメソッドⅢ 現代日本刑事法の基礎を問う』97頁,勁草書房,2019)。物証が意味するものを把握する際、有縁的でなければならない。そのため、物証のシニフィアン(記号のマテリアルな表現面)が呼び起こすシニフィエの関係は、恣意的であってはならない(記号の典型である言語の場合、この恣意性こそ特徴であった)。範型・範例思考は当然アナロジカルな思考であるから、開かれている。他方で、物証の場合、シニフィアンが物理的過程によってシニフィエを導く、説明されえる有縁性を持っていなければならない。原理的恣意性を認めてはならず、開かれていないということ。そのようなものしか物証と呼ばない、と言うこともできる。
3)(さらにややこしいが)物証を使って要証事実を推認する過程は、上記2)の構造と異なるものではない、と説明することもできる。例えば、室内に小さな砂や土が人の足型のような形で置かれている。これは人の土足での足跡を意味してると分かる、とする(「人の足跡」という物証のシニフィアンとシニフィエ)。さてその物証から、「誰かが侵入したのだ」と推認することもできるが、他方で、「誰かが(後ろ向きで)退去したのだ」と推認することもできる。ここに一義性はもちろん恣意性もないが有縁性はある。物的接続の説明が可能でなければならない。
〇パース記号論における言語と物証
・パース記号論における重要概念は解釈項(解釈作用と訳すべきとの指摘あり)である。
・解釈項は、ソシュールがいう言語における恣意性に相応するものとなるのだろう。恣意性がある、ということはそこに解釈項が存在している、と言えるからだ。
・言語においては、そのシニフィアンとシニフィエの結びつきには恣意性がある(これを強調するのがソシュール言語学)。シニフィエがレファランたる対象を指し示す(喚起する)ので、恣意性は言語記号と対象との関係に直結する。これをパース記号論の術語でいえば、象徴(symbol)と対象との結びつきの根拠が解釈項である、ということになる。
・他方で物証においては、そのシニフィアンとシニフィエ(これが指し示すレファラン)の結びつきは恣意性によるのではない。物的接続の説明可能性を持っていることが物証の意味だからである。これをパース記号論の術語でいえば、指標(index)と対象との結びつきの根拠は、両者の存在的関係性(実在的連関 real relation)である、ということになる。




【参考文献】
・フリチョフ・ハフト(平野敏彦訳)『レトリック流法律学習法』木鐸社,1998.
・カルロ・ギンズブルグ(竹山博英訳)『神話・寓意・徴候』せりか書房,1988.
・ウンベルト・エーコ/トマス・A・シービオク編『三人の記号 デュパン,ホームズ,パース』東京図書,1990.
・中井孝章「記号論からみた学びの生態――仮説的推論の射程」大阪市立大学生活科学部紀要,通号42,1994,155-174頁.




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