見出し画像

「とりあえずアイデアを100案出せば…」はもうやめよう

今日は寒かったですね。週末は29度くらいまであるらしいです。
一週間で20度くらい差がある。。。
 
なかなか書く時間取れなかったのですが、逆に書くことで整理していくスタンスでどんどん書いていこうと思います。
僕のアイデアなんかまだまだタダ当然ですし、逆に突っ込まれることで磨いてかないと。。。

そんなアイデアの話です。
割とアイデアを考えるような仕事をしている人は、誰しも聞いたことあるんじゃないでしょうか?

「アイデアを100個出せば、そのうち2個くらいいいのが混ざってる」

という言葉。下手な鉄砲も数打ちゃ当たるですね。


可能性としては確かにいいのが混ざってると思います。
確率で考えれば、沢山の選択肢があったほうが、いいものが入っている可能性は高い。宝くじだって数多く買えば当たる可能性も上がるはずです。

でも確率論の話をしたいのではなく、あくまでアイデアを生み出すことを考えるスタンスとして、です。


発散収束を繰り返す、という言葉もよく聞きます。僕もよく後輩に使ってます。2回繰り返すモデルとして、ダブルダイアモンドモデルが有名です。

このnoteの結論は、発散ではなく、「発離」というスタンスで臨んでみよう、というものです。なぜ発散ではなく、発離なのか、説明していきます。


あまりにアイデアを出すことに意識が向きすぎている


発散というものの今の捉えられ方に微妙な違和感を感じている理由は2つあります。

1つ目は、増やし方として提示されることが、あまりにも強制発想法のような手法に頼りすぎているということです。

強制発想法は、簡単にいえばアイデアをとにかく沢山増やす方法です。偶然性や創発的な観点など、様々な切り口でアイデアを生み出す方法があります。

これ自体は決して間違っているとは思いません。しかしあまりにもそれに頼りすぎていて、方法論を踏まえていけばアイデアを沢山生み出せると思いがちです。

どんな強制発想法でも、強制発想の要素となる項目がどのようにあるかというのが大切です。要素が4つしかなければ、4! の計算になって選択肢は、24通りです。(順序で影響があるとすれば)当然要素は多い方がいいです。

でもその要素をどうやって増やすかは、発想法の観点ではそんなに述べられてない気がします。もちろんそれがエスノグラフィとかそういう文脈だったりする訳ですが、発散の文脈としてはあまり捉えられているように思えません。


2つ目は、収束の観点からみた発散です。とにかく沢山アイデアは出せた!それをどうやって評価し減らそうか。よくあるのは投票だと思います。いくつかの評価観点をあげて、それ毎に整理していく方法もあります。

しかしその評価観点も、どちらかというとありきたりなものになりがちです。実現可能性、新規性、インパクト。よく使います。

でもそれで本当にオリジナリティのあるものが残っていくのか。評価の観点にこそオリジナリティがあるからこそ、そのコミュニティだからこそのアイデアが残っていくはずです。

ではどうやってその評価観点を生み出すのか。強制発想法をただやっただけでは、なかなか出てこないように思います。とにかく沢山アイデアを出したはいいけれど、そのアイデアをどう捉えたらいいかわかりづらい。せっかく良いアイデアが紛れていても、それは評価されにくいものだったりもします。


2つの観点で共通して足りないと考えているのは、アイデアそのものを構成している要素への理解だと思います。

手元にあるアイデアを散らし、アイデアを発生させた。発散という行為の現状はそんな風になってしまっている気が少ししています。発生したことは良いけれど、それがどうして生まれたのか、どのように生まれ、どうあるのかを客観視しづらいのです。


Diverge=発散?

なんども言いますが、強制発想法自体の否定をしている訳ではありません。とにかくアイデア出せばイノベーションは生まれる、みたいなスタンスがあったりすることが違うような気がする、ということです。

1つ目の点でも言及しましたが、一番重要なのはアイデアを生み出す必要がある現状自体への理解にあると考えています。そこで考えたのが、そもそも発散という言葉自体が適切なのか、という観点です。

そもそもDivergeという言葉には、沢山生み出す、という意味はありません。どちらかというと、広がる、分かれていく、離れていくという言葉です。

つまり何かから何かが広がっていく、分かれていく、離れていく、という言葉なのです。この何かこそが、アイデアを生み出す必要がある現状のことだと思います。

散らすという言葉だと、どうしても散らばすというようなイメージが沸いてしまいます。だから散らばし方とその結合の仕方として、発想法のイメージが強いのだと思います。

しかし言葉からすれば、本当の意味は、今ある文脈から要素を1つ1つ切り離していくことだと思います。アイデアも増やすべきですが、そのためには要素も当然増やすべきです。

逆にユーザーリサーチやフィールドワークで現状の文脈を理解するときもそうなのですが、どうしても文脈そのものを捉えようとしてしまうこともあります。そこでも大事な事だと思いますが、まずは文脈に含まれる要素をどう切り離して適切に捉えるか、という事だと思います。
(多分後輩の宮崎さんの研究もそこな気がしてます。。。学会発表頑張れ!)


そんなこんなで、Divergingの部分の訳は、散らばして創発するという発散ではなく、切り離して創発する「発離」として捉えた方が、スタンスとして正しいように思っています。

文脈から要素を切り出す方法が多様にあるからこそ、多様なアイデアがその文脈から生まれてくるはずです。文脈から適切に要素を切り離せるからこそ、文脈がどう成り立っているのかが理解でき、その文脈に沿った新たな提案が生み出せるはずです。

今研究していくべきは、アイデアの生み出し方ではなく、どうオリジナリティのある形で、文脈から要素を切り離していくのか、その方法にあるように思っています。

みなさんからいただいた支援は、本の購入や思考のための場の形成(コーヒー)の用意に生かさせていただき、新しいアウトプットに繋げさせていただきます!