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【時効目前】未解決の真実を求めて④ 10万台のナンバーに込められた想い 熊谷ひき逃げ事件

《連載記事です》
第1回 第2回 第3回 第5回

1人の遺族の「長すぎる」戦い

この事件を初めて取材した日のことを思い出している。

8年前の、冬の夕方だった。当時埼玉県で事件記者をしていた私は、2年前に起きた未解決事件の取材で埼玉県北部にある熊谷市を訪れた。

取材対象の女性は現場道路近くに立って、車のナンバーを控え続けていた。代里子さんだった。現場を通る車がとこから来て、どの方角へ向かうのかを記録しているのだ。その活動は「ナンバー調べ」と呼ばれ、「遺族の執念の活動」として、埼玉県警担当の記者の間ではすでに有名になっていた。

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事故現場には今も情報提供を求める看板が立つ。

ー代里子さんの目の前をヘッドライトをつけた車がどんどん通り過ぎていく。一瞬で通り過ぎる車のナンバーを正確に控えるのは簡単な作業ではない。ナンバーを見る人と数字を控える人、2人1組になって数字を記録していく。効率的なやり方を追求した結果、このスタイルになったのだろうと思われた。

(これは大変な作業だな・・・)

そう思った記憶がある。

事件から2年が経っていたこの当時、記録されたナンバーはすでに5万台に上っていた。「執念」という言葉が頭の中に浮かんだ。

ーあの日から6年近くが経った。

事件はまだ解決していない。そして今、「時効」という制度が遺族をさらなる苦しみへ突き落とそうとしている…

時効まで残り3週間ー

冒頭で記した「ナンバー調べ」は10年という代里子さんの長すぎる戦いを象徴する活動だ。今日はそのナンバー調べについて記そうと思う。

そこに込められた1人の遺族の想いと、その「始まりの日」についてー。

10万台のナンバー記録に込められた想い

1つの写真を見てもらいたい。

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現場近くの道路を簡略化した図だ。中央の赤い点が事故現場。周りのぼかした部分には車のナンバーがびっしりと書かれている。①や②といった中に書かれている数字を追っていくと、どの車がどういうルートを辿ったか、流れが分かるようになっている。

これらの資料の元になったのが事故現場に立って記録した車のナンバーだ。その数はこの10年で10万台分にも上る。

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どんな思いでこの活動を続けているのか。当時の私の取材に対し、彼女はこう答えていた。

「真実が知りたいんです。みんな『憎んでいるのか』って聞くんですけど、憎みたくても、誰を憎んでいいかも分からないんです」

「誰を憎んでいいのか分からない」

彼女は今も口にし続けている。事件後10年間、この気持ちをずっと抱え続けてきたのだと痛感させられる。「未解決」という事実は、想像以上に大きな負担を遺族の心に強いるものなのだろう。

「真実を知りたい」その一心で始まったこの活動。なぜ彼女がこの活動を始め、そして10万台ものナンバーを集めなければならなかったのか。

それを伝えるためには、10年前、事件の日の夜まで時間を遡らなければならない。

長い戦い その「始まりの日」

ー10年前、深夜の熊谷警察署。

「必ず捕まえます!」

当直の警察官だろうか。力強い口調で話される言葉を、代里子さんは呆然と聞いていた。

つい先ほど、息子の孝徳くんの死亡確認が行われたばかりだった。

「必ず捕まえます」という言葉を発した警察官は、心の底からそう思っていたと思う。その言葉を疑う理由などなかったし、そもそもそんな気力もなかった。

その後、自宅にどう帰ったのかはあまりよく覚えていない。この日のことを思い出そうとすると、今も辛くなるのだ。

翌朝、テレビでは孝徳くんが亡くなった事が報道されていた。

「埼玉県熊谷市の市道で、小学4年生の小関孝徳くんが車にひかれて死亡しました。・・・現場の状況から警察は、孝徳くんがひき逃げされたとみて、犯人の行方を捜査しています・・・」

まるで現実感がなかった。

犯人がいない。
怒りや悲しみの感情をぶつける相手がいない。
なぜ息子が亡くなったのかも分からない。

ニュースでは現場検証を行う警察官が様子が流れていた。「必ず捕まえます!」と力強く言った警察官の言葉が思い出された。

(犯人はすぐに捕まる)。

そう思っていた。犯人には聞きたいことが山ほどあった。

どういう状況だったのか。
最後の瞬間の孝徳の様子は?
泣いていたか。
それとも苦しんでいたのだろうか。
なぜ助けてくれなかったのか。
なぜ逃げたのか。

なぜ孝徳は死ななければならなかったのかー

ぶつけたい感情は溢れて止まらなかった。
何より息子にもう一度会いたかった。

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だが1日たっても2日たっても、犯人逮捕の連絡は来なかった。1週間たっても2週間たってもなかった。

そして3週間が過ぎた頃、この事件に関するニュースが流れた。

「この事件では有力な情報がなく、捜査が難航しています」

物証がなく目撃情報もないー

いてもたってもいられなくなった。
代里子さんはメモとペンを持って家を飛び出した。

「現場は地元の人しか使わない道路だ。おそらく近くの人間の犯行ではないか」

事故直後、代里子さんの周りではそういう声が多かった。

「近くの人間の犯行ではないか」

その言葉が頭の中に響く。
確かに、現場道路は抜け道に便路な生活道路だ。初めて来る人が使う道ではない。きっと犯人は事故現場周辺からそんなに遠くない場所にいる。代里子さんもそう思っていた。

でも本当にそうなのだろうか?

この道路を通る車は、本当に近くの人だけなのか。だったらなぜ捕まらないのか。この道路を使う人は、どういう流れでこの道路を利用するのだろうか?

(確かめなければ)

事故現場に向かう車の中で考えた。事件から3週間。犯人は自首してこなかった。犯人が現場の道路を通ることは、もうないだろう。現場に立っても犯人の車両を特定することはきっともう出来ない。でもー

現場に着くと、代里子さんは現場を通る車のナンバーを控え始めた。

この日、彼女が取ったメモが残されている。現場を車が通った時間と、熊谷方面と深谷方面のどちらに曲がったが、殴り書きのような字で記されている。

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メモの左上にはこの日の日付が書いてある。

2009年10月21日。

この日が、その後長く続くことになる「ナンバー調べ」の始まりの日となった。

この日の彼女は夢にも思っていない。

それからこの場で、10万台もの車のナンバーを記録に留めることになるとは。

時効直前に至るまで、この事件が未解決であるなどとはー。

広がる支援の輪 そして浮かんだ事実

「確かめなければ」

その一心で始められたナンバー調べにはその後、多くの協力の手がさしのべられた。警察捜査の力になればと、孝徳君が通っていた小学校やサッカー少年団の保護者たちが手伝ってくれるようになったのだった。

多い日には30人が集まってナンバー調べが行わるようになり、その様子はたびたび報道された。

「こんなことしたって無駄だよ」

心ない言葉を浴びせかけられたことも1度や2度ではない。しかし活動を続けた。本当にこの道路は近くの人間しか使わないのか?確かめなければならなかった。

自分にできることは全てやる。
その想いが彼女を動かしていたのだと思う。

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代里子さんの執念と、多くの協力によって集められた車のナンバー。集計していくと、熊谷市外、遠くは群馬県からの人もこの道路を使っていたことが浮かび上がってきた。

「生活道路だから、近くの人しか使わない」という指摘は、誤りだった。

これ以降、情報提供を呼びかけるビラ配りも熊谷市内に限らず、範囲を広げて行うようになった。捜査の一助になればと思い記録は全て警察にも提供した。

この活動は犯人の車両や個人を特定することではなく、車の流れをつかむことを目的に始められた。そのために、数万台ものナンバーを調べる必要があった。執念としか言いようがない。

「真実を知りたい」

その想いが、10万台のナンバーに込められている。代里子さんの感情の塊の一端が、ナンバーからは垣間見えるようだ。

「時効延長」を賭けて…

時効は目前だ。

現在の罪名である「自動車運転過失致死」の時効の期日は9月末。罪名の変更により「時効延長」となるか、おそらくは警察の判断次第だという事は前回記事で書いた。

時効の延長が適うか、警察がどう考えているのか、私には分からない。前向きに検討していて欲しいと心から思う。しかし検討の余地なしとして、全く考えられていない可能性もある(だとすれば絶望的だ・・)。

代里子さんが主張する「罪名変更」は決して無理な主張ではないと、私は思う。

この事件では事故後「司法解剖」が行われている。「司法解剖」は犯罪性がある場合、死因や、凶器の種類、死後の経過時間などを明らかにするために行なわれる。

その「犯罪性」とは何を指すか。

「司法解剖」が行われた時にはこの事件の適切な罪名が「自動車運転過失致死」か「危険運転致死」か、それとも「殺人」か分からなかったはずだ。

とすれば、罪名を切り替えることも出来るのではないか。これが代里子さんの主張だ。法務省の担当官も、この主張には耳を傾けてくれたという。

時効までおよそ3週間。10万台のナンバーに象徴される遺族の苦しみは、言葉ではとても表現出来るものではないー。

彼女の思いを、苦しみを、置き去りにする社会でよいのだろうか。こんな理不尽が、許されてよいのだろうか。

多くの人に知ってもらい、考えて欲しい。
そして、すこしでもこの声を広めて欲しい。
残された時間はあまりにも少ない…

(第4回 了)。

第5回は「未解決の真実を求めて⑤時効延長 異例の捜査継続へ」です。

《熊谷死亡ひき逃げ死亡事件》
2009年9月30日、埼玉県熊谷市の市道で、当時小学4年生だった小関孝徳くんがひき逃げされて亡くなった事件。発生から10年となる今月(9月)末、時効を迎える。遺族は「罪名変更による時効延長」の可能性に賭け、活動を続けている。
《追記》2019年9月にこの件はご遺族の活動の末に「時効延長」になりました。経緯は第5回の記事に書かれています。

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ブログ:

第1回の記事は以下。

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