e-デモクラシーが孤独を生む:非電子政府案内

はじめに
神長広樹と申します。現在エストニア、タリン工科大学電子政府学科修士2年生です。卒業も間近に控えたことからこの2年で学んだことをまとめてみたいと思い「電子政府案内」というシリーズを始めました。まだ6本の記事しかないのですが、ここに来て「電子政府化にも負の側面があるのではないか」と思うようになり、正の側面だけを語るのはアンフェアな気がしてきたため、時流に逆らいますが、反対意見も綴ってみたいと思います。

e-デモクラシーとはなにか

e-デモクラシーとは「Electronic(電子工学)」と「democracy(民主主義)」を組み合わせた造語であり、インターネットなどの情報通信技術を用いて共和制民主主義や議会制民主主義(間接民主制)、その他様々な民主主義モデルにおける政治プロセスを強化する技術のことである。Wikipediaより

1例を挙げますと、電子投票と言うのがまさにそれです。投票という行為、従来(あるいは現在)は投票所に行き、そこで指定された用紙にチェックなり候補者の名前を書いたりしていたものを、「それならスマホでできるじゃん」と諸々の電子機器で代替しました(例えばエストニア。なお、語としてはi-voting、 e-voting、 m-voting、それぞれインターネット投票、電子投票、モバイル投票のことであり、例えば投票所にタッチパネル等のスマホではない電子機器で投票することを指したりするが、ここでは特に区別しない)。

尚、関連語としてparticipation(政治参画)、transparency(透明性)、open data、anti-corruption(汚職対策)、social inclusion(社会包括性)、trust in government(政府への信頼)、privacyがあります。無理にまとめてみますと、

電子投票する際に意思決定者(国民)は正しい情報を持っていないと妥当な決定はできないよね→政府のデータをオープンにして情報提供を行おう→できる限り包み隠さずにオープンにすることで政府の透明性を高めよう→そしたら、政府への信頼が向上し汚職も少なくなる!→投票に関わるデータ以外もオープンにすれば2次的利用が促され市民の投票以外の政治参画にもつながる!→でも、プライバシーに関わるデータのセキュリティはしっかりしないとね→それから、電子投票を導入しても電子機器を使えない人(デジタルデバイドや情報格差)もいるから彼らが排除されることはないように従来の投票様式も残しておこう、といった具合です。

それがなぜ、孤独につながるのか

e-デモクラシーの理想としては個人のエンパワーメント(個人の権限を強くする)です。例えば上記の2次的利用というのは本来は国会議員がその責務として国にデータ開示をもとめ、チェックし、批判や提言をするというものであったものが、今、選択肢や可能性として市民にも開かれています。精神的に無理なのでやらないと思いますが、技術的には国会の審議のように議案ごとに国民に投票してもらうということも可能ですし、従来の方法と比べればずっと安価に済みます。

つまり、個人が強くなり、相対的に日本なら町内会、西欧なら教会といった媒介者・中間者の力が弱くなります。

なんなら、OECDのハンドブック(p.15, 16)では政府と市民の関係として

1、情報提供(政府は市民に十分な情報を提供する。一方通行)
2、諮問・相談(政府は市民からのフィードバックを吟味する。相互通行)
3、積極的な政治参加(市民から政府への直接の政策提言など、相互交流)

と、市民というのは個人という前提で話が進められています。上のは2001年の資料なのですが、電子政府の発展ではキーとなった資料でして、例えば2はチャットボットサービスの導入などで見て取れるかと思います。

しかし、この媒介者の欠如は議論の土壌の欠如をもたらします。お役所であっても直接の窓口で丁寧な説明をすることはあっても議論はしません。チャットボットサービスも議論はしないというか、現状できません。たまに政府主催でワークショップを開催することはあっても普通の人は参加しません。ましてや匿名性が一層高まり祭り型の性質が強いネット上では一般のまともな議論なんてネットの誕生以来ないに等しいのではなかろうか。

その点町内会や教会は違った。ほとんど自分の意志とは関係なく参加させられるのだが、それがよかった。自ずと色んな人、色んな意見が持ち込まれ、「勝った・負けた」ではなく、当事者としてどう折り合いをつけ、まとめていくかという「身の回りの政治」があった。これがトクヴィルのいう「フランスがデモクラシーを目指したフランス革命後にナポレオンの専制政治の誕生という皮肉を生み出した一方で、アメリカが比較的成功した要因」なのである。アメリカ、特に東海岸はタウンシップという個人と国家の中間に位置するような団体、団体活動が盛んだったのだ。日本で言うならば「地元という絆」であろう。

この中間者・媒介者の存在を葬ってしまうのが今のところのe-デモクラシーであり、筆者が孤独につながると留意することである。結果、市民は個人となり、社会はなく、その上の概念としてただ国家があるだけとなる。こうなってくると、どれだけ個人がエンパワーされようと孤立した力は無に等しいため、国家としては統治しやすくなる。しかも、安価に。

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