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ウラン・ウデとシベリア抑留

今回はウラン・ウデにあるシベリア抑留者の方の墓地(埋葬地)について中心にお話します。


最初に大前提として、シベリア抑留について確認していきましょう。

 シベリア抑留とは

抑留者のご家族・ご遺族の方や引揚者が上陸した地域の方以外、シベリア抑留については名前は知っているけど詳しいことは知らない…という方が多いのではないでしょうか。恥ずかしながら私も2018年にシベリア地域への赴任が決定するまで、ほとんど知識がありませんでした。

以下に簡潔にシベリア抑留の概要をまとめていきます。

日ソ不可侵条約を破ったソ連軍は、太平洋戦争末期の1945年8月9日以降、当時日本の傀儡国だった満州、日本領だった朝鮮や南樺太に攻め込みました。その後激しい戦闘の末に日ソ両軍は停戦に合意し、ソ連軍は日本軍の武装解除を行い、一部の民間人を含めていくつかの隊に再編成します。

そしてその各隊はソ連軍から「Домой!(ダモイ!・帰国!)」と言われ続けながら、列車や徒歩、船などで移動をしました。しかし、着いた場所は日本ではなく、現在のロシアのシベリアやウラル地域、その他に現在のモンゴル、中央アジア諸国、ウクライナなどにあった強制収容所でした。

強制収容所に収監された日本人は、第二次世界大戦で大きな人的・物的損失を被ったソ連の戦後復興のために、強制的に駆り出されることになったのです。

抑留者の生活はごく一部の例外を除き過酷を極めていました。わずかな食糧と粗末な服しか与えられず、集団でラーゲリという粗末なつくりの施設で暮らし、重労働に従事させられました。しかも真冬には−30度を連日下回るような寒空の地域もある中。そのため一説には約6万人の日本人が死亡したともいわれています。(日本の厚生労働省は約5万5,000人が死亡したとしています)

抑留された人は約57万5,000人にのぼりました。1946年にソ連はアメリカとの間で抑留者の段階的な帰還に合意したものの、帰還は当初の取り決めよりも進まず、1950年4月〜53年12月には帰還そのものが中断してしまいます。中断後は段階的に帰還が再開されました。

そのような中で1955年にハバロフスクの抑留者達が劣悪な環境や待遇に抗議してストライキを決行した「ハバロフスク事件」が帰還した抑留者によって日本に伝わると、日本国内で抑留者全員の早期帰還を求める声が大きくなりました。1956年10月に当時の鳩山一郎首相はモスクワに飛び、抑留者全員の赦免と帰還についても言及された日ソ共同宣言に調印。ようやく1956年12月26日に帰国を希望する全員の日本への帰還が達成されました。

1946年〜1956年までに帰還したシベリア抑留者の数は約47万3,000人だとされています。

舞鶴港に上陸したシベリア抑留からの帰還者たち(パブリックドメイン)

シベリア抑留者や抑留中の生活などについては、新宿にある平和祈念展示資料館で詳しく見ることができます。私もウラン・ウデ赴任前に見学しました。おすすめの場所です。

ウラン・ウデと抑留者

私が暮らす東シベリアのウラン・ウデも、シベリア抑留とは大きく関わりがある町です。ウラン・ウデ市内にもかつて強制収容所があり、日本人抑留者が強制労働に駆り出されていました。ウラン・ウデのあるブリヤート共和国には、約1万人以上の抑留者が収容されていたそうです。

現在ウラン・ウデの中心部にあり、ウラン・ウデの名所でもあるオペラ・バレー劇場の建設にも、たくさんのシベリア抑留者が携わっています。

中央左の荘厳な建物がオペラ・バレー劇場

現在のこちらの高齢者世代やその親の世代の人の中には、日本人抑留者が働いているところを目撃したり、スープなどの食料を配りに行ったりした人もいるそうです。

また、以前は定期的に地元の有志の方を中心に日本人抑留者の慰霊祭も行われていたそうです。(現在は不明)

ウラン・ウデのシベリア抑留者墓地(埋葬地)

ウラン・ウデには私が知る限り、少なくとも2つのシベリア抑留者の方の墓地があります。1つは市内中心部から程遠くない大学の構内、もう1つは市の外れにある共同墓地の一角です。

2024年2月2日現在、私が参拝したことがあるのは前者の墓地のみです。後者については参拝次第ここに情報を追記したいと思います。

墓地への行き方(市内中心部から程遠くない大学の構内)

現状、ロシアを訪れる人はごく少数だと思いますし、訪露もおすすめもできませんが、今後墓地へ訪問される方のために市内中心部からの行き方をご紹介します。

出発地点はウラン・ウデの中心、レーニンの頭があるソビエト広場からとします。

ちょうどレーニンの頭が正面に見える場所、黄色い洋風の建物の前にバス停があります。そのバス停から30番のミニバスか17番のバスに乗って行くことができます。

レーニン像の向かいの乗り場から乗ります。広場側には屋根付きの立派なバス停がありますが、そちらではないです。

30番のミニバスはロシア語で「Маршрутка(マルシルートカ)」と呼ばれるもので、ロシア語が苦手な人やロシアでの行動に慣れていない人にはおすすめできません。

17番のバスの場合はロシア語とブリヤート語だけですが停留所のアナウンスも流れ、日本と同じでボタンで降車希望を知らせることができるのでオススメします。17番のバスの場合、運賃は乗務員が乗車後に回収に来ます。

30番のミニバスに乗った場合も、17番のバスに乗った場合も、降車する停留所は「Десятой корпус(ジェシャータイ コルプス・10号館)」です。17番のバスの場合はお墓がある側に、30番のミニバスの場合はお墓から見ると道路を挟んで向かい側に停車します。

ちなみにお墓の向かい側には花屋とスーパーがあるので、お花やお供えも買うことができます。

①30番のミニバスに乗った場合のバス停からの景色

お墓は①の写真の中央の建物の手前左側にあります。大学の構内になりますが、門はほぼ常に開いていて誰でも入ることができ、春〜秋には散歩をしている一般の人も多いです。門は中央の建物が正面に見える辺りに存在します。

門を通ったら、①の写真の中央の建物の入口方向に向かって進んでください。この建物の入り口手前から左側を見ると、お墓があります。②の写真のピンクの○のところです。後は敷地内の道に沿って歩いていけば、お墓にたどり着きます。

ここに現在のブリヤート共和国で抑留され、無念の死を遂げられた抑留者の方々の一部が眠られています。

このお墓があるところの住所はУл.Ключевская 40в, ст5です。

帰りは、お墓から道路を挟んで向かいのバス停から、17番のバス、30番のミニバスを利用してソビエト広場に戻ることができます。 

墓地への行き方(市の外れの共同墓地の場合)

参拝次第執筆します。

おわりに・シベリア抑留とどう向き合うか

恥ずかしながら私はシベリア抑留について、2018年に日本の某公的機関からの派遣でブリヤート共和国に行くことが決まる前まで、ほとんど何も知りませんでした。教科書には書いてあったのかもしれませんが、学校の授業で大きく扱われた記憶もありません。シベリアに派遣されることになり、そこで初めて言葉だけ知っていたシベリア抑留について調べるようになりました。

一方でロシアでもシベリア抑留を学校で習うということは聞く限りでは基本的にないらしく、知らない人も多いそうです。ブリヤート共和国のような実際に抑留者がいた地域では、抑留者の方を目撃したり交流があったりした人が子ども世代にそのことを伝え、さらにその子どもが自分の子どもに伝え…と、代々語り継がれている場合もありますが。

遺族の方や関係者の方など一部を除き、日本でもロシアでもシベリア抑留という悲惨で残酷な出来事が十分に語り継がれているとはとても思えません。

人間は自分たちにとって都合の悪い出来事や耳を塞ぎたい出来事は、無理やり忘れようとしたり、都合の良い事実を捏造したりするものだと思います。悲惨な出来事も語り継がなければ風化し忘れ去られてしまうか、誰かの都合の良いように捏造され、卑劣な使われ方をされてしまうかもしれません。

シベリア抑留は、戦争をきっかけとした決して風化させてはならない、起きたことを改変してはならない悲惨な出来事です。こういった負の記憶をしっかりと語り継いでいくことが、現在・未来の残酷な事態を止める小さなきっかけになるのではないかと考えています。

私はシベリア抑留者の方のお墓参りをするたびに日本語でもロシア語でもSNSで発信するようにしていますが、今後も継続していきたいです。このような悲惨な出来事があったことを現代や後世に伝えていくための小さな取り組みとして続けていきます。

また、このような世界情勢であるため、ご遺族の方や関係者の方などが訪露し参拝するのがとても難しくなっています。私ごときに代わりが務まるわけはありませんが、参拝の際は皆様の分まで誠意を込めて今後もお祈りいたします。













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