皮肉屋としての資質と僕の絵画の関係性。
「ゴミはいくら描いてもゴミ」
そう言われて
自分が何を描きたいのか
何をしたいのか
何で描くのか
見つめ直すいい機会を頂いております
感謝いたします。
何度もいうとくどくて皮肉に聞こえてきますが
こんな機会を頂けて僕は本当に幸せに思っています
絵画に対しての取り組み方や考え方に変化が生まれて
自分にはもっといいものが描けるのだ
という声が日に日に強くこだまするようになりました
例えそれがゴミだとしても、無意味なゴミじゃ無いとさえ思えます
ゴミから教わることがあります
世界は今そういう廃棄問題、主にプラスチックが今は問題に上がっていますが
僕の絵画もそういう類の精神的な異物なのかもしれません
その異物に対する時
人間はまた一つ成長していけるのも事実です
君はどうするのか?
と、問いかけられているようです
そして僕もそう問いかけています
完全な皮肉です。笑
最近考えていることがあります
僕は皮肉屋で、それが画家としての原動力になっているのでは無いか?
ということです
今までに100枚ほど油絵作品を描きました(画家を始めてからの3年間の間にだけれど、この数字が多い少ないはどうでも良いことです)
身近な風景や、旅行先での事、見かけた物事、何処にでもあるような普通の建物、などです
「君の絵画には何か抜け落ちている、何一つ欲しいものがない」
「情熱だけで才能がないなんてなんてかわいそうなんだ」
と言われて散々な気分ではあるのですが
今思えば本人達は気付いていないのでしょうが、何も感じないのであればそれは無であり、言葉を発する対象にもならないはずです
無視できず、僕に向けてそういう言葉を浴びせ、絵画一つ一つを指差して、説明を始めるという事が、一体どういう事なのか?
どうやら僕の皮肉交じりの挑発にまんまと乗ってきたのではないか?
そう思うのです
そして感じました、確かに売るために描いた絵とは到底思えない僕の作品は、人の心に何かしらの刺激を与える事には成功しているという事
そして僕自身、絵画を探求する者であり
それ以上でも以下でもない、まさに画家という事に他ならないと思うのです
趣味の範囲であれば誰も文句は言わないものです
僕の絵画の探求が、人の心を逆撫でし始めたのはとてもいい兆候です
売れなくてもいい
それで死んでも仕方ない
絵画の探求を死ぬまで続けられるなら
僕は文句は言いません
幸せです、僕にまだまだ絵画の探求をさせてくれるんですね
この道に思い切って足を踏み込んだあの頃の自分に賞賛を
そして出会った全ての方々に感謝します
これまでの僕を否定されて初めてこれからの未来が開けた
僕はきっといい画家になるでしょう、情熱的なゴミです🤣
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