見出し画像

今日のカメラの祝福と呪い

撮影にカメラは欠かせないのですが、ふと今のカメラと写真について思ったことを書き綴ってみた。

カメラや写真に興味が強かったり、仕事など携わる頻度が高い人はWebを使用しているとカメラ関係の広告を目にすることが多いと思う。

新しいカメラ機種やレンズ、編集ソフトなど月日が経っても常に最新の情報が流れこんでくる。

僕がカメラを触り始めた5,6年前から今日までも、ミラーレスカメラを中心とした進化はとてつもない速さだ。
編集ソフトもそうだ。AIの発達で、画像の一部分の自動認識の精度が高くななった。

カメラと編集ソフトだけでなく、インターネットも我々に与える影響も大きい。この技術革新は我々にとって恩恵であることは間違いない。

昔とくらべたら、手間はどんどん省け、誰もが好きなように好きな時に写真を撮って公開することができるようになった。
フォーカスも速くなり、多少暗くても撮れちゃうし、編集で色味や明るさも大概自由に変更できる。そう、カメラ界隈は大変恵まれた環境となった。

しかし、この祝福ははたして我々にとって幸せなのか...?

進化したカメラ(機材・ソフト)というのは写真家にとっての「祝福」と「呪い」という二面性を持っていると思う。

「祝福」というのは、この機材があれば容易に表現と作製ができる便利さということ。
「呪い」というのは、編集含めた選択肢と自由度の豊さと容易さで、個性や作家性といった表現の苦悩。

それは、あらゆる力(高度なカメラ性能)は「祝福」であると同時に「呪い」でもある。

さらにインターネットの登場により写真が全世界で共有されるようになり、写真の反応評価が顕になり。ある種、撮った写真を世の中に投下することが答え合わせになってしまっている面も呪いを助長している。

こういうの写真が求められているのか...。こういうのが綺麗ということなのか...。といった具合に。

昔のカメラとフィルムカメラ、レンズなどはクセがあってそれが独特でもあった。勿論、カメラという機材のみで個性や表現が確立されるということはないけど。

今日のカメラと編集が写真表現幅をより広く自由に拡張させた。
ただ、それを持ってしても理想な写真を撮れているのだろうか。
叶えられているのだろうか。

良い写真、上手い写真について、ずっと前から議論されているが、面白いことにカメラが良いからってだけの結論で閉じることはあまりない気がした。

そのぶん、写真を提示された際に、撮影者がどんな想いと意図で撮ったのか。その人は普段どんな生活を送っているのかなど、パーソナリティが大きいと思う。

写真を横に撮影者と毎回お話できるということはないけど、聞くことによって見え方や印象が大きく異なる。

結局のところ、カメラはツールでしかない。
この祝福と呪いを受けながら(我々はそんなことを意識してないけど)、撮り続ける。

今後もカメラはより進化していく。撮影から公開までのアウトプットの速さと量も増大するから写真ももっと流通するだろう。

それでも、その時シャッターを切った時の想いや環境が切実だったほうが実は幸福なのかもしれない。
その写真は理解されないかもしれないし、見せる必要もないかもしれない。

ふと、自分がなんで撮っているだろう。って考えると滑稽だったりもする。

何故撮って、何を見せているのか。手段なのか目的なのか。
カメラって魔力だ。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?