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The Witness 大嫌い

The Witnessが大嫌いという話をします、まず大前提として、The Witnessとはなにかというと、2016年に発売されたパズルゲームです、ジャンルはオープンフィールドという、まあちょっとパズルとしてはめずらしいヤツで、クレジットを見るとディレクターはジョナサン・ブローとありますが、誰だかよく知りません、誰だかよく知りませんが、僕はこのジョナサン・ブローというヤツも嫌いです、それはどういうことかという話を、ぼちぼちします、というか、僕はこのThe WitnessというゲームのiPhone版を、確か2017年ごろに日本ではリリースされたらしいんですけども、それがどういうものかということをまったく知らず、誰かがSNSで面白いパズルゲームだと褒めているのを偶然に見かけて興味を持ち、2020年の12月半ばごろに自費で購入し、プレイするにあたってwikiもネットの情報も参考にすることなく、作曲作業の合間に、一ヶ月半ほどかかって、徹底してノーヒントでパズルを解いていき、ちゃんと独力でエンディングまでプレイしましたから、良い感想であれ、良くない感想であれ、好きなことを好きに言っていいでしょうと思いますから、言うわけです。

最初に断っておきますけど、基本的にゲームの内容について書きたいとは思わないけど、これ、どんな情報の断片でもヒントになりうる種類の構造をしているので、これからThe Witnessを遊びたいと思う人は、ここからの文章を読まないほうがいいと思います、というか読まないでください、あと、The Witness大好きという人も、読まないほうがいいです、で、いま情報と言いましたけど、僕が考えるところの、ゲームとは何か、ということからまず話していきますけど、ゲームとは制限であり規則である、というのが僕の持論なわけです、つまり、ゲームにおいて自由度というのは意味を成さなくて、なにをしてもいい状況というのはツールにはなってもゲームになりえないというか、ゲームというのは、なにかはっきりとした禁止事項があって、それを尊守することで初めて生み出されるものだと思うわけです、で、ゲームを解くというのは、その禁止事項を成立させている規則を解明し、理解し、実行する、という手順によって成されると、こういうわけなので、逆から言うと、ゲームを設計するというのは、中心となる規則を設定すると同時に、解き方を設計するということでもあるので、すなわち、ゲームを成立させる規則に関する情報開示の手順を設計する、ということもであるわけです、つまり、プレイヤーは、ゲームデザイナーの設計した通りに、情報を開示され、規則の本質を理解し、それに則った行動をする、ことによって、ゲームを遊ぶ、つまり解いていくことができるのです。

言ってしまえば、プレイヤーは、設計者が仕掛けた通りに行動し、仕掛けた通りに経験をしていくわけですが、上手いゲームデザイナー、あるいは巧みなゲームデザイナーほど、その恣意性を感じさせない、あたかも、プレイヤーが自発的に発想し、観察し、自分の意思で判断し、行動して、問題を解決していったかのように誤解させる、ここのところこそ、遊ぶ楽しさに直結するので、エンターテイメントとしてとても重要なところなのですが、誰だって、誰かに言われたことを漫然とそのとおりにやって、楽しいわけがないので、自分の意思で、自分の力で問題を解決したと思いたい、だってそのほうが格段に喜びが大きいでしょう、というわけで、ゲームデザイナーというのは、できるかぎり影の存在であるほうがいいわけです、プレイヤーが意識しないで済めば済むほどいい、本質的にそういうものです。

しかしながら、ここからが本題です。

この、The Witnessというゲームは、だだっ広い場所、具体的には謎の島ですが、そこに点在する仕掛けやパズルを、なんか漠然と歩き回ることで、まあそれが言ってしまえばオープンフィールドということなんでけども、歩いている途中でプレイヤーが気になるものを発見、よく見るとそれはどうやらパズルのようだ、で。プレイヤーが頭を働かせてパズルを解くことで進行していく、つまり、パズルを解くことで扉が開いたりして行ける場所が増え、次のパズルが登場する、そういう形式のパズルゲームなわけですが、こういう形式のパズルゲームを設計するときに、もっとも重要なのは、いかにスムーズに分かりやすくヒント、つまり、そのパズルを解くための必要十分情報を提示して、プレイヤーが純粋にパズルを解くことに集中し、楽しめるようにするか、ということなわけですが、まあこのThe Witnessにおいてはそういうことがまったく、清々しいほど無視され、まさに傍若無人、パズル無間地獄と言っていい暗黒世界が現出しているわけであります。

といっても、実際に見て解いて経験しないと、どういうことか理解するのは難しいと思いますが、とりあえず箇条書きにしてみると。
・ヒントとヒントでないものがごちゃまぜに提示される
・どこからどこまでがヒントなのか判然としない
・そもそもヒントがどういう形式で提示されるかに関する情報がない
・そもそもヒントがあるのかないのかもわからない

わからないんですよ本当に、って、なんていうかだだっ広い場所にぽつんとパズルらしきものが立っていて、どうやれば解けるのか、ぜんぜん記されていない、という状況を想像してもらえばいいかなあ、正直言ってこれだけでも相当なものですが、驚くことはもっともっともっともっとあって、あるところで規則だと提示されたことが、別の場所では無視されたりもします、解く方は大混乱です、で、結果としてなにが起こるかというと、ゲーム全体を通底して基盤となるルールを明示されなかったプレイヤーは、なにがヒントでなにがヒントでないのか、見当がつかなくなり、仕方なく、その局面における、ゲームデザイナーの意図を推察する、という極めて高難度な精神的作業を要求されてしまうわけです。

いやこれめんどくさいよ、イライラするよ、ここでゲームデザイナーはこういう風に解いて欲しいとプレイヤーに期待してるっぽい、とか、いちいち推察して、それを検証していくの、ほんとにめんどくさい、あまつさえ、パズルを解くのに失敗すると、手順を戻されたりするところもあって、まったく意味ないストレスを背負わされる、これはしんどい、しんどすぎるわ、なんというか、はっきりとは言わないくせに思わせぶりになにかを激しく厳しく要求しつつこちらを試してくる異性とコミュニケーションするぐらいめんどくさい。

で、そのわけのわからんパズルの合間合間に、さらにわけのわからんポエムを聞かされる、何度も何度も、あちこちにポエム装置が仕掛けてあって、意味のない自己満足なセリフが響きわたる、最後の方にいたっては、このゲームの制作資料みたいなものまで陳列されて、なんかこう、作り手の褒めて欲しい感が滲み出しちゃってる、そのくせ、まったくわけのわからないところで、アンドレイ・タルコフスキーの撮った1983年の映画「ノスタルジア」の断片が流されたりして、なんなんそれ、そこで他人の創作物、それも超有名で歴史的な傑作を持ってくる意義がどこにあるの、もうほんとごめんなさい私が悪かったです、ただ楽しくパズルが解きたかっただけなんです、なのにこの仕打ちは酷いわ、前世で恨みでもあるのかこの僕に

もちろん、巷で褒めそやす声あまたあるのも知ってるし、素晴らしいという賛辞も耳にしますよ、しますけど、いやいや僕は認めません、認めないという人間がひとりくらいいたっていいじゃないね、たとえ、全世界で何億人が素晴らしいと言ったって、僕にとってダメならそれはダメです、で、The Witnessはダメ、断じて認めません、ダメです、ダメである上に嫌いです、嫌い、そりゃあ500個だかなんだか、ジョナサンがものすごい数のパズルを作ったことには驚くよ、確かに素晴らしい才能と努力だよ、最後の巨大パズルを解く手順とか、よくこんなの考えたなあと尊敬に値する、羨望すら抱く、でもね、やっぱり、視認性とか、操作性とかを、パズル難度の要素にしちゃダメだよ、それだけはやっちゃいけないことだよ、ゲームデザイナーとしての禁忌ですよ、加えて言えば、エンディングを迎えるにあたって、さんざん聞かされ続けたポエムや世界観やストーリー的な要素についての説明や物語的結末が一切なかった、それはもう忘れ去られたかのごとく綺麗さっぱりなかったのが、果てしなく失望した大きな要因でもありました、あと、なんか風景のなかにいっぱいキラキラしたなにかがあったりするのですが、あまりにもめんどくさいので無視です、そんな適当な付け足しみたいなもの要らない。

というわけで、僕はThe Witnessが大嫌いという話でした、以上、で、実際のところどうなのよと興味がある人は、iPhoneでも他のプラットフォームでもリリースされているらしいので、購入して遊んでもいいし、僕の感想や評価とは無関係に、遊んだ人が楽しめるに越したことはないと思いますので、チャレンジしていただきたいですが、いちおう言っておくと、僕が画面に向かってぶち切れながら「そりゃねえだろ!」と突っ込んだのが、三回くらいあった、それを覚悟のうえで挑む有志諸兄に敬意を表するとともに、心より健闘を祈るものであります。

恐惶謹言、よって件のごとし。

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