小説『香港の男 The Man from Hong Kong』(2019年)より抜粋

……

 ひととの交流、恋愛、物や場所の発見、ひらめき等、そういった新しい出逢いを次々と求めながら生きている時、もしくは求めざるを得ずに生きている時、ひとつ私達は大切なことを忘れているような気がするのだ。人生においてたったひとつで良いから宝物として持てる物語があればそれで良いと。物語を求めて生きていて、もしもたった一つ何かに出逢い、そしてそれを永遠の宝として抱いて一生を終えられるとしたならば、それになんの不満があろう。それが恋なのか「風情」なのか「ロマンス」なのかすらわからない、その偶然出逢った、たったひとつだけの物語を抱いて生きる人の姿を、私は味気ないとも儚いとも哀れとも言わない。美しい。それをロマンと呼べば、ロマンを自分の物語としてひとつ、心の両手に柔らかく、でも確かに抱くひとはただ美しく生きるのである。私が以上のような強い、揺すぶられるような思いに至ったのは、ある物語に出逢ったからだ。

 さあ、ではここでひとつ、私が大阪のヨーロッパ通りの老舗のバーで昔聞いた話をしよう。昔と言っても五年程前の事だが、大阪には珍しく心底寒い冬の日、鱈腹のウォッカで少し酔っていた私の記憶は多少正確ではないかもしれない。けれども、今やここで正確か否かなど大きな問題ではないのだ。ここで重要なのはただひとつ、ある物語を抱いて生きているひとがいたということである。

私がそのバーのカウンターで、バイトで入っているのであろうベトナム出身の若いバーテン相手に意地の悪い冗談を言いながら独り数杯目のスウェーデン産ウォッカをチビチビやっていた時、私よりも少し酔いの回った二十代半ば程の女性が私の隣に座った。他店から流れてきたものと思われる。彼女の名は、誠に失礼ながら実はよく覚えていないが、ナツかハルか、とにかく四季の名だった。ここではナツさんとしておこう。

ナツさんは連れの女性、この方に関しても私は名前を完全に失念してしまっているのだが、ナツさんはその女性と共にカウンターの私の隣の席に着いた。外は寒く、店に逃げ込んできた人は多く結構混んでいて、そこにしか二人分の席が無かったものとみえる。

「わたしは梅酒のお湯割り濃いめで。」

 ナツさんがまず声を手袋を外しながらバーテンにかけた。この店に梅酒なんてあったのかと私は少し笑った、心の内でだけれども。二人に関して、連れの女性も含め、綺麗な人だなと思ったのが第一印象で、ナツさんはショート、連れの方が髪を特徴的にひっつめた団子状にしていたので、もしかして航空機の客室乗務員か空港の地上勤務職員ではなかろうかと思った。二人はしゅっとしたトレンチコートを身にまとっていた。色は覚えていない。ただ思えばこれもひとつの運命的な出逢いだったのだ。私も彼女たちも寒さの中、もう少し酔いたくてこの決して大きくない、でも暖かい、バーを選んだ。

 二人の休みが重なってこんな遅くまで飲むのは久しぶりね、というようなことを彼女たちは話していた。私は私でひとり思うことがあり、彼女たちの飲み物を作る若いバーテンの手元を程よい酔いの中で、ぼーっと眺めていた。

「彼は元気なの?」

 ナツさんの連れが聞くと、ナツさんが頷いた。

「そろそろ引っ越したいって思ってる。彼がもう少し広い部屋でもやってけるって言ってくれたの。」

 引っ越しや新しい部屋などというのは私の大好物の言葉だ。つまり、一人の家具商人としての話だが。ぼーっとしていた意識がキュッと引き締まるのが分かった。売り買いに絡む本能だ。今までもこうやって飲みの席で何人もの客を捕まえてきている。私はバーのカウンターというのが特に、時間を選ばず、商談に向いた場所だと信じている。私はグラスの残りのウォッカを一気にあおって、次に冷えに冷えたクバ・リブレを頼んだ。

 相手が客室乗務員なら新居に合わせて家具を新調するにあたり、ある程度の価格帯の家具も視野に入れるだろう。新調する気が無くても一度店まで来てもらえば、考えを変えてもらうことはできるかもしれない。一瞥する限りのファッションでも彼女のセンスがうちの店と合わないことはないはずだ。

「場所は決まってるの?」

「全然。だから実際に引っ越すのはまだ先になるよ。でも市内が良いわね。環状線の駅か、御堂筋か、堺筋でも良い。」

 ナツさんは梅酒の杯に最初の口をつけて、唇を湿らす程度すすった。しばらく二人の間には沈黙が続いて、それぞれがそれぞれの杯を両手で握ったまま時間が過ぎた。

 すっと何かの拍子にナツさんの肘が私と彼女の間に置かれていた彼女の手袋に当たり、手袋が床に落ちた。あっ、と彼女が言ったが、それと同時に私は手袋をすでに拾い上げていた。

「どうぞ。」

 これが私がナツさんにかけた最初の言葉だ。ありがとう、と彼女はほとんど私の眼も見ずに答えて手袋を受け取った。ウォッカをやりすぎて、酒臭い呑んだくれ野郎と思われたかなと最初私は不安になった。

「ここに梅酒が置いてあるなんて知りませんでした。」

 私が咄嗟にそう言うと、ナツさんはやっとこちらを向いて、はにかみながら、

「温まりたくて。」

 と答えた。私たちはしばらく見つめ合って、私から何か言わなければならない空気になった。勿論、正直のところ私からすれば願ったり叶ったりではあるのだ。

「失礼ながら、少し先ほどのお話を耳に挟んでしまったんです。お引っ越しの話を。もし不快に思われないようなら、お話を聞かせてもらってもいいですか?実は私は北堀江で家具屋をやってるんです。」

「堀江で家具屋さんを?」

 彼女の眼がきらっと一瞬輝いた。第一印象としては悪くはなさそうだ。

「立花通りでは、まあ、ないんですがね、北堀江です。」

 そう言って私は、香港上海新加坡オリエンタル家具取扱オポチュニティ・ファニチャー・ストアという店名と、私の名前の書かれた名刺を彼女たち二人に手渡した。表には日本語で、裏には英語で表記がある。ナツさんはその両面をくるくる回して見ると

「ノブロン・アンド・カンパニーねえ。」

 と私の会社の名前を呟き、何かを思い出したように薄っすら、私は逃さなかったが、本当に気付くか気付かないか分からないくらいの笑みを浮かべた。

「国内産の木製家具を主に扱ってるんですが、そもそもはシンガポールや香港、上海、マカオといった辺りの、いわば東から東南アジアにかけての旧植民地時代の中華風と西欧風が折衷したようなデザインの家具を輸入して扱ってる店なんです。決して安価とは言えませんが大きなものから小さなものまでデザインと品質、格調は保証します。」

「北欧風でなく?」

 ナツさんの連れが私に尋ねた。

「ええ、残念ながら、それはイケアさんにお任せしております。」

 私がそう答えると、連れの方は笑いながら、そして明らかに興味を失った様子でまた手の中の杯を見つめ出した。件のナツさんはどうかと彼女の様子を伺っていると、彼女は少し変わった様子でいまだ私の名刺を眺めている。

「気になってるんなら行ってみたら良いじゃない。」

 ナツさんの連れがそう彼女に寄りかかり囁くと、彼女は私の名刺を一旦カウンターに置きコートの中に手を入れて、しばらくごそごそすると、何かを握りしめてまたカウンターの上に置いた。それは、何かきらっと輝くコインのようなものだった。しげしげ見ると、日本で普段見られるようなものではない、瓶の王冠のような波状の縁取りの真ん中に、2と大きく書かれた白銅のコインである。数字の周りには中国語の繁体字とアルファベットで何か刻まれていた。

 私は、残念ながら会社でも国内の販売専門で、国外へ商材の買い付けに出かけたことが一度もない。研修目的で一度上海へ行った以外、入社してから海外経験はなかった。だから、このコインの出どころにはとんと知見がない。

「これは?」

 私が尋ねると、ナツさんが答えた。

「香港のコインです。」

「こないだ遊びに行った時の?」

 ナツさんの連れが尋ねると、ナツさんは首を振った。

「これは。これは、まったく別のもの。」

 ここで彼女は私の方を見て、自己紹介をした。彼女の連れもそれに合わせて自己紹介をした。私のよみ通り、彼女たちは航空機の客室乗務員で、今日が終わりの勤務日、明日からが休日だということ、そしてナツさんはかれこれ当時から半年前の秋に香港へ遊びに出かけたということ、そういったことを彼女はざっくり語った。私はこの時まだ家具を売りつける商売っ気に取り憑かれていて、彼女が香港へ赴き楽しんだという話を聞き、浮き足立ってこれは商機だぞ程度にしか事を考えていなかった。

 ナツさんは、私にでも、彼女の連れにでも、話すわけでなく、ただカウンターの上の名刺とコインと梅酒の杯の中間を見つめながら、淡々と話し始めた。

……

「いずれにしろ本名の中国語は覚えられなかったわ。一度は言われたかもしれないけど、発音が難しくて覚えていないのよ。しかも正確に言えば中国語ではなく広東語ね。だから私にとってアーヴィンはアーヴィンよ。」

 彼女にとってのアーヴィン、それは私達にとってのアーヴィンでもある。この物語は、アーヴィンこと、この「香港の男」と彼女の物語だ。

 彼女がアーヴィンに写真を送ったのは旅行から帰ってしばらくしてからのことだった。正直に言えば、危なく送るのを忘れかけていたくらいだった。自分たちが客室乗務員として業務する中でも写真を撮ることはあるし一緒に写ることはある。そんな風にあの写真も別段特別なものではなかった。香港旅行の方は最高で、そちらの思い出が沢山ある中に不意にあの写真の記憶が思い出された。

「全部片付けたつもりになってたキャリーケースから、アーヴィンの渡してくれた申告書の破れたのが出てきて、しまった、忘れてたって思い出したの。」

 機内では英語でコミュニケーションを取っていたし、とりあえず英語で挨拶を送った。まあ最初の「こんにちは」だけは、香港の旅行の時に覚えた広東語で「ネイホウ」っていうんだけど、そうやって送った。綴りはニーハオと変わんないんだけど。それから勿論写真もね。送ったのは昼頃で返事が来たのはその晩だったかな。とにかくその日のうちに返事は来た。

 それからしばらくやり取りが続いた。数日に渡って、当たり障りの無いような、どうでも良い事。わたしが香港へ行って何を食べたかとか、どこへ行って何を見たかとか。そのうちにアーヴィンは自分の素性を教えてくれた。

……

 失礼な話だけど、海外から来てご飯の約束までしといて、わたしは相手を見て気に入らなかったら、やばいなと思ったら、回れ右をしてドタキャンしても良いやなんて思ってたんだ。今考えればひどい話だけどそんなものでしょ。でも、そんな気はもはや一切起こらなかった。むしろ、香港行きの機内で彼のどこを見てたんだろうって思った。なんで今まで彼を記憶の片隅に追いやれるような、簡単に忘れてしまえる存在として扱えたのかって。

 まだ会って目を合わせて、挨拶を交わしたわけでもない。数十メートル先の、わたしに気づいてすらいない彼を見て、でももうわたしは、このひとなら大丈夫だわ、大丈夫ってどういう事か自分でもわからないんだけど、でもこのひとなら大丈夫、あらゆる意味で大丈夫って強く感じた。アーヴィンはね、そういうひとだった。

 電車の発車標のフラップがパタパタ小気味良く鳴って、わたしはしばらく世界から切り取られたアーヴィンを茫然と見つめたまま立ち尽くしていたことに、はっとして気づいた。やっと歩き出して彼の方へ向かって、途中人の波に遭いながら、数十メートル。彼のすぐそばに立った時、彼は愉しげに発車標のフラップのパタパタを見上げていた。

「Hi, ah..」

 私が声をかけるとアーヴィンはドキっとしたように発車標のパタパタから視線を引いて、わたしをぱっと見た。

「啊、hi!!」

 すぐ彼の頰にえくぼが浮かんで、柔らかくにっこりした。こうして、わたしとアーヴィンは再会したの。

……

 折角、道頓堀に来たんだから、お決まりのあれもしなきゃなんないって、わたしは何のことだかよく分かってないアーヴィンを連れて戎橋へ行ったわ。そこで、グリコの看板を見せて、大阪に来てここで写真を撮らないってのは、香港へ行ってヴィクトリア・ピークや重慶大厦の写真を撮らないのとおんなじで、大阪に来てないのとおんなじってことよって、二人の写真を撮ることにした。グリコを背に二人並んだ写真をね。

 まず、わたしの携帯で。わたしより身長も手の長さも幾分長かった彼が撮ってくれた。自撮りするのが上手で、慣れてるなあって思った。キャビンクルーだし、写真をお客さんと自撮りで撮ることもあるのかな、なんて思っていたの。

 次に、彼の携帯で撮ろうっていう瞬間に彼の画面が一瞬だけ見えたんだけど、女の子の写真が壁紙になってて、「あっ、この人には彼女がいるんだ」ってわたしははっきり悟った。でもね、ショックとかそういうのでは全くなかった。第一、わたし自身にも彼氏がいるわけだし、そして何かやましいことをしようっていうわけでもない。でも、一瞬見えてしまった現実が、わたし達の、二人だけの瞬間に突き刺さったのは事実で、それに痛みを感じたのも事実だわ。見なければ良かったって今でも思う。彼を見送るまでのすべての瞬間をわたし達二人だけのものにしたかったから。写真撮ってくれてありがとうって言った時に見せたあのいつもの柔らかい笑顔が、普段は別の何かにも向けられてるという現実が、この瞬間の裏側にあるんだって思うと、すごく心に堪えて胸がつっかえた。

……

 今度こそお別れなんだって、わたしは思った。道を渡ってパチンコ屋の隣の地下鉄の入り口から入れば、そこに喫茶店があるし、もし時間が許すならそこで話そうって言いたかったけど、わたしには言えなかった。

 胸がぐっと詰まる感じがして、今一体アーヴィンがこの瞬間のことをどう考えているのか知りたかった。わたしと同じように思ってるのかな。このお別れが本当に最後になるかもって、それがとても苦しいことだって、彼も思ってるのかな。前の夜と同じように地下鉄の出入り口の真ん前で、わたし達二人は見つめ合って立ちつくしていた。

 彼の顔は曇ってなんていなかった。わたしは今どんな顔に見えてるのかな。彼はいつもの笑顔をゆっくり生み出すように、その瞬間の顔でいた。わたしもにっこりできるかな。できてるかな。

 話は終わっていたから、あとはお別れの言葉だけだった。アーヴィンから先に、もう行くよって呟いた。さようならとは言わないのね。わたしは見送るのが「得意」な人間のはずだから、そこに立って彼が去るのを見ていなければならない。見送るのが好きな人間のはずだから、彼が地下へ吸い込まれていく、その瞬間を見ていなければならない。でも、こんなに誰かとのお別れの瞬間から逃げ出してしまいたかったことは、今まで、無かったわ。

「香港か大阪か、またどこかで会いましょう。」

 使い古された別れの言葉。それにはどこか心がこもっていなくって、でもその一言のせいで彼はにっこりして、そして同時に独りになることに少し怯えるような寂しげな目をして頷いて、傘をわたしの左手に渡すと、二人の傘から出て行った。二人の傘はわたし独りの傘になっちゃった。

 わたしはね、今の瞬間を失いたくないだけなんだ。今のこの瞬間、あなたを失いたくない。次でも前でもない。今。それをあなたは分かっているかな。おんなじ風に思ってくれてたのかな。

……

いかがでしょうか、以上が『香港の男 The Man from Hong Kong』の抜粋です。返還直前の香港映画の情緒が好きな方なんかは舞台は大阪だけど、そんな情緒を読み取ってもらえるかなあと思いますし、実際大量に香港映画をオマージュしています。また、1つの恋愛小説的な物語としても読めるので、香港大阪云々全部抜きにしても楽しんでもらえる一作品だと思います。

では恒例の電子書籍紹介、気に入って頂けた方はぜひ買っちゃってください。本当に売れてないので笑。

あといずれ後ほど、『香港の男 The Man from Hong Kong』のあとがきも掲載しようかなと思っています。これは一部有料で、というのもこの作品を書くまでにも物語があって、作者である私自身が関西で体験したことがこの作品を書くモチヴェーションとなっているので、あとがきだけでも楽しめる構成になっています。というか、あとがきと本編は、本来は、一緒に読んでもらって初めて「なるほど」と思ってもらえるものなんですが、こっちで抜粋を出しちゃったのであとがきも掲載します。どうぞよろしくお願いします。

収録電子書籍情報:
『香港の男 The Man from Hong Kong』
価格:¥300(税込)
著者:松倉弘城(Hiroki Matsukura)
発行:竹松社(Chikushousha)http://chikushousha.wpblog.jp
販売:Amazon Kindle→https://www.amazon.co.jp/dp/B07R6B9JYL/
発行日:2019年4月25日
ISBN:978-4-9909572-5-4

「あなたに物語はありますか?ーあなたの物語を聞かせてください」
ひとつの物語を大切に抱いて生きるひとの姿を描いた作品。

是非手に取って読んでみてくださいね。


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