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【東大生からテレビ記者に質問⑤】「人々に与えた影響をどのようにして測っているのでしょうか?」

「まさか『視聴率』を信じているなんてことは今更ないですよね?」という質問の次の段階の質問かもしれませんね。しかし視聴率について考えてしまわないと、東大生から頂いた質問に到達できない気がするので、まずそっちから。

視聴率は何のために発明された概念なのか?
これはシンプルにビジネスのためです。番組やCMを売っていく、その値段を交渉していくビジネス上の指標として必要だったし、便利だったからです。視聴率が非常に少ないサンプルから算出されていることからも明らかですが、視聴率は「ある番組を何人が見ているか」を算出できませんし、いわんや「ある番組が人々にどのぐらい影響を与えたかを測る」指標でもありません。

ただ、視聴率を発明してみたら、ポジティブな副作用が生まれました。上がったり下がったりする視聴率が、番組の制作者たちを鼓舞したのです。視聴率は、<相対的>な数字です。<絶対的>な視聴人数は教えてくれませんが、<相対的>な時系列比較や他局との比較を可能にします。人間は数字に褒めてもらえると、素直にうれしくなっちゃう生き物です。ディレクターも出演者も脚本家もカメラマンも…、テレビの制作現場は人間だらけです。「前回放送より数字が上がった」「数字は下がったけどライバル局には勝った」などなど視聴率で一喜一憂することが、番組制作へのモチベーション、スタッフの士気を左右する景色を幾度となく見てきました。

しかし視聴率は、ビジネスや士気向上の「手段」ではなく、「目的」化した瞬間、一気に「毒性」を帯びます。報道番組の魂無きワイドショー化や、演出後回しのキャスティングなど、視聴率の「毒」に侵され終わっていった番組は数知れません。確かに、視聴率が悪いと番組はビジネスライクに打ち切られてしまいますからね。「死なないため」に「毒を食らう」のです。末期症状、恐ろしいことです。

あるお笑い番組を担当していたときの忘れられない先輩の一言があります。年明け最初の番組会議でした。先輩は会議の冒頭でお正月の箱根駅伝の話をし始めました。
先輩「優勝した大学の監督が言っていたんだよね。『1秒を削り出せ!』ってね。なんか印象に残る言葉で、はっとさせられたんだよね。つまり番組を作るってことは、この言葉を借りるなら…」
当時すっかり視聴率の「毒」が全身に回っていた僕は、視聴率を『1%を削り出せ!』という単純なオチを予想していました。外れです。
先輩「…はっとさせられたんだよね。つまり番組を作るってことはさ、この言葉を借りるなら『1笑いを削り出せ!』ってことだよね」
すーっと僕を「解毒」してくれる先輩の言葉でした。お笑い番組の目的は、笑いを届けることであって、視聴率を取ることではありません。こんな当たり前のことすら忘れさせてしまうのが、視聴率という「猛毒」です。

ということで、そんな危険な数字をむき出しにしておくわけにはいかないので、数式に閉じ込めてしまうことにしますね。これでやっと、東大生の質問に戻れます。
<①人々に与えた影響> 
=<②一人への影響力>×<③視聴数> …A
という前提は大丈夫だと思います。そして、②③をそれぞれ僕の解釈で言い換えますと、以下のBの数式になります。
<①人々に与えた影響> 
=<②その人の世界の見え方をどこまで変えたか>
 ×<③視聴率とか配信数とか口コミ数とか> …B
となります。質問では<①人々に与えた影響>をどう測るか知りたいということでした。③はデータがありますが、②は人々の心の中での出来事です。ですから、<人々に与えた影響>を「算出」することは残念ながら困難なのです。

しかし、社会生活を送っていながら、<人々の変化>を感じ取ることはできます。<人々の変化>とは<人々が受けた影響>です。つまり、<人々の変化>を見つければ、それは<人々に与えた影響>のひとつだと考えることもできます。そこでBの数式で移行をしてみようと思います。

<②その人の世界の見え方をどこまで変えたか>
=<①人々に与えた影響>÷<③視聴率とか配信数とか口コミ数とか> …C

となります。この数式は、メディアの制作者たちを励ますことができます。たとえば、ある記者が「24時間コンビニオーナーの経営実態の厳しさ」について、いち早く原稿を書いたとします。ただ、その原稿が読まれたニュース番組の<視聴率>は低調だったとします。しかし、世間は「コンビニ24時間営業の見直し」に向けて検討し始めました。実際に大きな<人々の変化>が生まれたのです。Cの数式にあてはめて考えてみると、<①人々に与えた影響>は大きく、<③視聴率>は小さいということになります。それで計算をしてみると、<②その人の世界の見え方をどこまで変えたか>は「大きい」となります。

つまり「記者が最初に書いた原稿に触れた人々は少なかったが、ひとりひとりは原稿の内容に大きく共鳴し、世界の見え方が変わった」と言えるのです。この解釈のおかげで、たとえ視聴率が低かろうとも、原稿を書いた記者の勇気や挑戦や苦労は報われることになります。そしてその記者はひとつ成熟できるのです。

「人々に与えた影響」を測るのは困難です。しかし「人々が変化すること」から、メディアの制作者たちが、たとえ届けた人数が少なかったとしても、勇気づけられ、成熟するということが起きるのです。それが叶うチャンスを得るために、制作者たちに求められる条件はひとつだけです。それは「世界の見え方が変わりますように」という強い信念を持って、誰かに向けたメッセージを原稿や作品に込めることです。

それはもしかすると誰かに向けて一生懸命書く「手紙」のようなものかもしれませんね。それもラブレターや果たし状といった、熱量が高い類いの「手紙」。マスメディアのことを、その果たさなければならない社会的責任を念頭に、報道機関だとか「社会の公器」だとか大仰な呼び方をしますが、メディアの中のひとりひとりの制作者は、とても個人的にオリジナルなやり方で魂を込めた「手紙を書いていく」、それでいいのだと思います。