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日常に関する曖昧な「パス回し」論(自分用)

サラリーマンとか夫婦関係とかバンド活動とかやりながら、つくづく感じるのは、前に進みたければ、<ドリブル>技術を磨くより、細かい<パス>回しを実践するべし、ということ。ボールを持ち続けていても、ひとりでドリブルで突破できる距離はたかが知れています。シュートはゴール前で打つべき人が打てばいい。それは、あなたかもしれませんし、僕かもしれません。

そして、細かく出していく<パス>の「味付け=テイスト」こそが、その人の能力であり醍醐味なのでしょう。誰かに対して、お願いしたり、お願いされたり、驚かせたり、傷つけたり…そのときの<パス>の「正確性」や「意外性」や「迫力」みたいなものに、その人の人柄が宿るのだと思います。荒っぽい「怒声」、そのまんまの「丸投げ」や弱々しい「陰口」などは、人柄の欠けた<パス>。決して前には進まない<パス>です。そんな<パス>しか出せない人は、みんなで前進していく上で、いなくても良かったのだ、となってしまうでしょう。

あと忘れてはいけないのは、前向きな<パス>は、走り続ける人のもとにだけ回ってくるということ。やはり、疲れている場合ではありませんね。
「あの人は何だか駆け抜けている」。
せめて誰かといるときぐらいは、そう映る、そう思わせる僕でいよう、と。

「残り試合」は意外と少ないのです。フィールドに立っている時間はさらに少ないでしょう。ゴールに絡めるかはわかりませんが、誰かのために駆け抜けている自分が、そこにはいて欲しいと思うのです。