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OB訪問に来た東大生の質問に、テレビ記者がかなり真剣に答えてみました。

【東大生からテレビ記者に質問①】「OB訪問をさせていただきたいのですが?」

「はい。是非お願いします。どうかOB訪問を受けさせていただきたいです」
が答えです。

社会人になりたてでひとつ成長した気分になって、学生さんのOB訪問とか積極的に受けて自慢げに語っていた時期が過ぎて、仕事やら育児やら体力低下やらでヘロヘロで学生なんか構ってられないよ〜の時期も過ぎて、今、再びOB訪問していただけるなら有り難いなぁ、お話しさせてください!の時期が訪れています。

10年ちょい「社会人」をやったところで、<経験>は積もっても、たいして人間として成熟できていないなぁと気づいたからです。<経験>を重ねながら、<経験知>を発見する。その<経験知>を材料にして、自分の<社会的役割>を悩み、誰かのために実行し、うまくいかずにまた悩む、これを繰り返してやっと<成熟>できるのです。

①<経験>だけでモテようとする自慢おにいさん→
②<経験知>だけで忙しさ乗り切るテクニックおじさん→
③<社会的役割>に悩み、困っている人に世話焼くお節介おじさん

となんとか③まで<成熟>していきたいと、アラフォーになって切に思うようになったのです。①や②の域で思考停止している先輩おじさんたちを見ると、物哀しい気持ちになりますし、明日は我が身だなと。

僕の<社会的役割>って何でしょう?
その答えのようなものを、なんとか言語化しておきたいのです。
自分ひとりで悩んでいても限界があるので、これからの時代を築く学生さんに難しい質問をいただいて、真剣に悩んでみよう、丁寧に丁寧に答えてみよう、そう思ったのです。脳ミソを絞って絞って言葉を選んでも、上手く表現できないなぁと悔しくなるでしょうし、学生さんの期待ともズレが生まれるでしょう。でも、その隙間こそがチャンスで、隙間に喜んで挟まっていくこと、上手くいかなかった事実をそのまま受け止めることで、おじさんは<成熟>できると信じているのです。

さて、それでは本題の質問をいただきます。

【東大生からテレビ記者に質問②ー1】「情報を一般の人々に届ける上で大切にされていることは何でしょうか?」

適切な回答をするためには、質問(問題文)をよく読まないといけません。質問の冒頭にいきなり「情報」と書いてあります。あれ、「ニュース」や「報道」ではないのです。これは実は深刻なポイントです。テレビ記者に期待されているのが「ニュース」ではなく「情報」だということだからです。

①「権力を監視すること」(=夕方ニュースの視聴率が圧勝していた頃)
②「国民の知る権利に答えること」(=夕方ニュースの視聴率が落ちてきた頃)
③「視聴者に寄り添うこと」(=夕方ニュースの視聴率が負けた頃)

上記は「報道番組とは何でしょうか?」という問いに対する、うちの報道幹部のここ10数年の回答の変遷です。夕方ニュースの視聴率と無理やり相関づけましたが、たぶん合っています。もし「情報番組とは何でしょうか?」という問いだったら、①②③どれも正解でしょうが、「報道番組」は③であってはいけません。視聴者が知りたくもなかった、寄り添いたくもない現実を伝えるのも報道番組です。報道と視聴率は、そもそも「相性が悪い」し、両立することを目標にするとどちらも中途半端なものに陥ります。

はい。東大生の質問に戻ります。僕はテレビ記者であるのに「情報の届け方」を聞かれてしまいました。これは報道番組が「情報番組もどき」にすっかり成り下がってしまった現状がおそらく影響しています。「情報番組もどき」は百戦錬磨のディレクターたちが魂を込めて制作している本来の情報番組よりも悪質なものです。

テレビが置いてあるお茶の間にしてみれば、報道番組も情報番組も、ほとんど差を意識することなく見ている、その傾向がますます強まっているのだと思います。もちろん、お茶の間は自由です。しかし冒頭示した通り、報道幹部の考え方が①から③に変遷していった過程で、「監視されなくなった権力」「放送されなかった権力」が生まれ、人知れず弱者に対して悪さをしている権力が以前より横行してきているのは事実です。この事実を「無視してはいけない番組」それが本来の報道番組だと思います。

ご質問の「情報の届け方」については、僕は専門外なので多くは語れませんが、視聴者の喜怒哀楽の引き出し方だったり、VTRとスタジオのバランスの取り方だったり、「フリ・オチ・フォロー」の構成だったり、何よりもディレクターの信念や熱量だったり、ディレクターの間で長年伝承されている熟練の技が数々あると思います。

しかし今回、僕は現在はテレビ記者なので「ニュースの届け方」について回答させていただきたいと思います。それは、①に立ち帰ること、もし③の表現を借りるなら「弱者に寄り添うこと」です。「国民に寄り添う。福島県民、沖縄県民、拉致被害者家族に寄り添う」とうそぶく安倍首相のマネではいけません。以前も書きましたが「困っている人がいること」がニュースのスタート地点です。次回は、このスタート地点を踏まえた上で「ニュースを届ける上で大切にしていること」について書いてみようと思います。

※下記は「困っている人がいること」についての過去noteです。ご参照。

【東大生からテレビ記者に質問②ー2】「情報を一般の人々に届ける上で大切にされていることは何でしょうか?」

「あなたの鼻唄になりたい」
シンガーソングライターに憧れていた頃、こんな恥ずかしいことを夢見て曲を作っていましたが、さて問題です!「鼻唄」になれるのはどんな歌でしょうか?
メロディーに中毒性がある歌や、歌詞のシンコペーションが心地よい歌なども「鼻唄」になりやすいでしょうが、「鼻唄」になれる可能性が圧倒的に高い歌は決まっています。

「ついさっきまで聴いていた歌」です。一番最後に聴いた歌、それが「鼻唄」に採用される可能性が最も高い歌です。今度「鼻唄」が舞い降りた際には、ぜひご確認ください。もしくは、ある人の「鼻唄」を聞けば、その人が10分前に見ていたテレビ番組も予測できたりしますよ。

ですから、東大生からの質問に答えるならば、僕が「ニュース(情報)を届ける上で大切にしていること」、それは「原稿の最後の一文に魂を込める」です。テレビ報道用語では、文のことを「Q」と呼びますので、ラストの「Q」、いわゆる「ラスQに魂を込める」ということです。逆に言えば「ラスQ」を見れば、記者がどんな気持ちで原稿を書いたのかがわかります。

僕は経済記者なので、例えば「日産に対してルノーが経営統合を提案した」というニュースで「ラスQ」を比較してみます。

①ラスQ=「今後の両社の動向が注目されます」
「最低」のラスQです。中身なし。テレビ電波の無駄。記者は余程やる気がないが、締め切りに追われて投げやりです。そもそも原稿で「注目されます」など受動態を使うのは無責任です。記者が「伝える主体」になることから逃げているわけですから。

②ラスQ=「6月に開かれる株主総会で新しい経営体制が決まる見通しです」
「無難」なラスQです。今後の客観的な予定で締めるパターン。正直僕もよく書いてしまいます。しかし記者としての熱量と勉強量の足りなさを露呈しています。
ちなみに!「無念」なラスQの可能性もあります。実は、このあとに熱い魂がこもったラスQがあったのに、放送上カットされてしまった場合です。ドンマイ!

③ラスQ=「経営の主導権を巡る日産とルノーの対立がより激しくなりそうです」
「悪質」なラスQです。二項対立に単純化して仲の悪さを煽る、テレビ屋がよく陥る手法です。しかも本能的に。敵味方を作って視聴者の「怒り」の感情を引き出せば視聴率が取れると勘違いしています。事態はいつだって複雑なのに、シンプルな対立構造に落とし込んだせいで思考停止を招き、社会的解決から遠ざかります。そもそも、ラスQで複雑な状況を的確に表現すること自体が不可能なのです…と元も子もないことを言ってみまして、次。

④ラスQ=「業績が悪化した時期を狙ったかのような経営統合の打診、6月に株主総会が迫る中、日産の経営陣はさらに難しい舵取りを求められそうです」
「日経」なラスQです。ビジネスマン向け。生活者が眺めるテレビ向けではありません。ただ、このタイプのラスQも僕はよく書いてしまいます。反省。なぜなら、ひとつ大切な取材をサボっているからです。

「困っている人」に関する取材をサボっているのです。これまで何度も書いてきた通り、ニュースのスタート地点はひとつしかありません。
「困っている人がいること」です。
「困っている人」がいるからこそ、そのニュースは報道される価値があります。
先輩が教えてくれましたが、司馬遼太郎は「新聞やテレビは単なるinformationやknowledgeを伝えるのではなく、wisdom(英智)を伝えるべき」と言ったそうです。納得です。「英智」と呼べるほどのメッセージは難しいですが、せめて「生きていく知恵」につながるような「困っている人」に関わる情報を届けなくては、それは本来的にはニュースではありません。そしてその情報を込める場所、それが「ラスQ」なのです。

⑤ラスQ=「業績悪化の責任を追及される中、日産の経営陣が大幅なリストラに踏み切る可能性が高まっています」
「僕なり」のラスQです。まだまだ取材が甘く浅はかな内容でただただ申し訳ありませんが、これで一応何とかニュースにはなれた、と思っています。日産のニュースで「困っている人」は色々いますが、まずは世界中の工場や営業所で働く従業員とその家族だと思いましたので。
つまり、「『困っている人』に関する情報を、わずかでも取材して『ラスQ』に盛り込むこと」それが僕が「ニュース(情報)を届ける上で大切にしていること」です。

「一人前の記者面」をしてエラそうに語っていますけど、ごめんなさい、どうかどうかご容赦ください。このシリーズのnoteの冒頭で述べた通り、東大生の質問をきっかけにさせていただいて、半人前でも一応テレビ記者をやっている現在の自分の「社会的役割」を探し、そして言語化する試みなんです。だから続けたいです。勇気を持って、恥じらいも忘れずに、次の質問に答えさせていただきたいと思います。

【東大生からテレビ記者に質問③】「人々に興味を持ってもらうために工夫していることは何でしょうか?」

たとえば「平成最後の○○」と死んでも言わないことです。死んでも。
なぜなら、もし言ってしまったら「死んじゃう」からです。

「誰でも言いそうなこと、誰が言ったのか特定できないこと」を言う人は、そうすることを通じて自分が「いてもいなくても大勢に影響がない人間」(中略)であることを自己申告しています。(内田樹)

恐ろしいことです。雰囲気に流されて軽いノリで口にした言葉のせいで、自分が少しずつ消えていきます。つまり、僕が私淑する内田先生の上記の指摘を裏返せば、それが東大生の質問への答えになります。「『みんなが言わなさそうなこと』を言うことで自分は『誰かにとって必要な人間』になれる」ということです。

では、具体的にテレビ記者として「みんなが言わなさそうなこと」とは何でしょうか?それを考えるヒントとして、SNS上で「みんなが言わなさそうなこと」をつぶやくために僕が気を付けている<指針>を以下に挙げてみます。

①言い回しで遊ぶ。
②悪口で締めない。
③どうか恥ずかしくあれ。
④五感に訴えればなお良し。
⑤難解は難解のまま挑むべし。

さて、この中にテレビ記者として「みんなが言わなさそうなこと」を言うために役立ちそうな項目はあるでしょうか?

…ありました!見つけた気がします。
⑤です。<難解は難解のまま挑むべし>、これからのテレビ記者にとって、活かせそうな気がします!

テレビ局の多くの制作現場では<難解>は嫌がられます。
しかも記者や番組制作をしていると「わかりやすく伝える」ことを時々強要されます。本当に失礼な話です、テレビを見てくれている人たちに対して。「わかりやすく伝える」という考え方には、ふたつの問題点が潜んでいます。

①本来複雑な事実を「わかりやすく」改竄している点。
これは恐ろしいです。取材前に想定した「わかりやすいストーリー」に悪気なく事実を当てはめようとしますから。
②テレビ記者の方が「わかりやすく」伝える能力があると勘違いしている点。
当事者でも専門家でもないテレビ記者は、物事を「わかりやすく伝える」権利も能力もありません。

記者にだけできることは限られています。ニュースの現場で大量の情報を浴びた記者にだけできること。
それは「くわしく伝える」ことです。
言い換えると現場で取材した事実を、<できるだけ変えず>に、<できるだけ大量>に、<できるだけ多様>に原稿に入れることです。たとえば「商品の管理体制に甘さがあったとみられ、」という原稿があったとして、<できるだけ変えず>原稿でしたら「会見で社長は『商品開発を急いでいて、物作りへの意識が低かった』と述べ、」となります。

しかし、テレビ記者は困りました。「くわしく伝えたい!」のですが、ニュースの尺(時間)が足りません。ひとつのニュースが50秒だったりします。
そこで⑤の<難解は難解のまま挑むべし>です。
東大生さん、ごめんなさい。これはまだ「人々に興味を持ってもらうため」の僕からの提案であり、努力目標だったりします。でも、結構本気です。解説系の情報・バラエティ番組があふれて、ネット検索が日常化した今こそ、テレビ記者が<難解さ>を武器にして「みんなが言わなさそうなこと」を言える最大のチャンスが訪れています。

ニュース原稿だけは、尺や文字数を食う、用語解説や平易な言い回しは止めて、<難解な事実>を「くわしく伝える」ために、現場そのままの<難解な言葉>を多用する、のはいかがでしょうか?
簡単な言葉に置き換えてわかりやすく伝えようとするよりも、「みんなが言わなさそうな」<難解な言葉>で事実を語った方が、人々がより真剣に興味を持ってくれると思いますし、そのニュースで困っている人の切実な温度感をくわしく届けられる、そう思うのです。

…とは提案したものの、<難解>な原稿、うまく書けるかな。そして番組のチェックをうまく通過して放送されるかな。でも明日から、ちょっとずつ仕掛けてみようと思います。

【東大生からテレビ記者に質問④】「うまく周りの人々を巻き込むためのコツは何でしょうか?」

良いチームを作ろうと思ったら、まず第一は「多くの人々を巻き込もうとしない」ことだと思います。言い換えればチームの「小回り」を大事にすることです。まずはチームを作るにあたって<1チーム=5人>ぐらいで検討してみてはいかがでしょうか?長年いろんなバンドをやってきた経験知から推計しているのですが、記者の取材チームだったり、様々なプロジェクトチームにも当てはまる気がします。

なぜ<1チーム=5人>をオススメしているのか?
まずチームにとって必要なことは、「生き延びること」と「士気を高く保つこと」の二つだと思います。そのために、チームの「小回り」、つまりチームという「生命体」の「代謝が良さ」が大切です。<5人>が最適だと言っているのは、その「代謝の良さ」を実現するために必要な役割が<5つ>あると考えているからです。<5人>ぐらいにメンバーの数を抑えると、おのずと以下のように<5つの役割>に分担されていくことが多い気がします。

①責任を引き受けるリーダー
②現場を牽引するエース
③さくさく処理するイエスマン
④方針によく反発する中堅
⑤ちょっと頼りない若手

僕はこの<5つの役割>分担が理想形だと思っています。そして大切なのは、<5つの役割>を持ったメンバーを「誰も仲間外れにしない」ということです。メンバーが<5人>ぐらいいると、④=みんなで決めた方針に反発するメンバーや、⑤=相対的に頼りないメンバーがそのうち必ず出てきます。これはネガティブなことではまったくなく、むしろチームの「代謝の良さ」を保つチャンスであり、チームが「生命体」として強くなっている証でもあるのです。もしチームが行き詰ったり、置かれた環境が激変したりした時、それまで生意気に反発してきた④のメンバーは、一躍①や②となり、チームの救世主となり得ます。逆になんだか鼻につく④のメンバーを追放してしまったら、そのチームは変化に対応できぬ「絶滅危惧種」となっていくでしょう。

そして!チームの「生命力」そして士気を保つために、圧倒的に大切な存在が⑤の「ちょっと頼りない若手」です。この若手を「絶対に排除しない」と他のメンバー4人が心に誓うことが、チームの士気を最大限高めるとともに永続的なチームになることを可能にすると思います。たいした戦力にはならないけれど、他のメンバーを応援し活躍を見てくれている⑤の存在は、他のメンバー4人の「あきらめない気持ち」を刺激し、潜在能力を十二分に引き出します。

さらに、⑤の存在を許容することではじめて、チームは後継者を見つけていくことができます。⑤の役割は、いわば動物で言えば「子孫」にあたります。チームの中で頼りないメンバーを見つけては順番にクビにしていくような、⑤のポジションがないチームは「一代限り」となってしまうでしょう。

東大生の質問に戻りましょう。「うまく周りの人々を巻き込むためのコツは何か?」です。<1チーム=5人>というご提案をしましたが、その上でコツをひとつだけ絞るとするならば、「チームに頼りないメンバーを見つけたら、絶対に仲間外れにしない」です。このメッセージの強さは、チーム内を鼓舞するだけでなく、チーム外にも伝わってチームの存在価値を高めることでしょう。

以上が、あの頃、随分と頼りなかった僕の実感です。

【東大生からテレビ記者に質問⑤】「人々に与えた影響をどのようにして測っているのでしょうか?」

「まさか『視聴率』を信じているなんてことは今更ないですよね?」という質問の次の段階の質問かもしれませんね。しかし視聴率について考えてしまわないと、東大生から頂いた質問に到達できない気がするので、まずそっちから。

視聴率は何のために発明された概念なのか?
これはシンプルにビジネスのためです。番組やCMを売っていく、その値段を交渉していくビジネス上の指標として必要だったし、便利だったからです。視聴率が非常に少ないサンプルから算出されていることからも明らかですが、視聴率は「ある番組を何人が見ているか」を算出できませんし、いわんや「ある番組が人々にどのぐらい影響を与えたかを測る」指標でもありません。

ただ、視聴率を発明してみたら、ポジティブな副作用が生まれました。上がったり下がったりする視聴率が、番組の制作者たちを鼓舞したのです。視聴率は、<相対的>な数字です。<絶対的>な視聴人数は教えてくれませんが、<相対的>な時系列比較や他局との比較を可能にします。人間は数字に褒めてもらえると、素直にうれしくなっちゃう生き物です。ディレクターも出演者も脚本家もカメラマンも…、テレビの制作現場は人間だらけです。「前回放送より数字が上がった」「数字は下がったけどライバル局には勝った」などなど視聴率で一喜一憂することが、番組制作へのモチベーション、スタッフの士気を左右する景色を幾度となく見てきました。

しかし視聴率は、ビジネスや士気向上の「手段」ではなく、「目的」化した瞬間、一気に「毒性」を帯びます。報道番組の魂無きワイドショー化や、演出後回しのキャスティングなど、視聴率の「毒」に侵され終わっていった番組は数知れません。確かに、視聴率が悪いと番組はビジネスライクに打ち切られてしまいますからね。「死なないため」に「毒を食らう」のです。末期症状、恐ろしいことです。

あるお笑い番組を担当していたときの忘れられない先輩の一言があります。年明け最初の番組会議でした。先輩は会議の冒頭でお正月の箱根駅伝の話をし始めました。
先輩「優勝した大学の監督が言っていたんだよね。『1秒を削り出せ!』ってね。なんか印象に残る言葉で、はっとさせられたんだよね。つまり番組を作るってことは、この言葉を借りるなら…」
当時すっかり視聴率の「毒」が全身に回っていた僕は、視聴率を『1%を削り出せ!』という単純なオチを予想していました。外れです。
先輩「…はっとさせられたんだよね。つまり番組を作るってことはさ、この言葉を借りるなら『1笑いを削り出せ!』ってことだよね」
すーっと僕を「解毒」してくれる先輩の言葉でした。お笑い番組の目的は、笑いを届けることであって、視聴率を取ることではありません。こんな当たり前のことすら忘れさせてしまうのが、視聴率という「猛毒」です。

ということで、そんな危険な数字をむき出しにしておくわけにはいかないので、数式に閉じ込めてしまうことにしますね。これでやっと、東大生の質問に戻れます

<①人々に与えた影響> 
=<②一人への影響力>×<③視聴数> …A

という前提は大丈夫だと思います。そして、②③をそれぞれ僕の解釈で言い換えますと、以下のBの数式になります。

<①人々に与えた影響> 
=<②その人の世界の見え方をどこまで変えたか>
 ×<③視聴率とか配信数とか口コミ数とか> …B

となります。質問では<①人々に与えた影響>をどう測るか知りたいということでした。③はデータがありますが、②は人々の心の中での出来事です。ですから、<人々に与えた影響>を「算出」することは残念ながら困難なのです。

しかし、社会生活を送っていながら、<人々の変化>を感じ取ることはできます。<人々の変化>とは<人々が受けた影響>です。つまり、<人々の変化>を見つければ、それは<人々に与えた影響>のひとつだと考えることもできます。そこでBの数式で移行をしてみようと思います。

<②その人の世界の見え方をどこまで変えたか>
=<①人々に与えた影響>÷<③視聴率とか配信数とか口コミ数とか> …C

となります。この数式は、メディアの制作者たちを励ますことができます。たとえば、ある記者が「24時間コンビニオーナーの経営実態の厳しさ」について、いち早く原稿を書いたとします。ただ、その原稿が読まれたニュース番組の<視聴率>は低調だったとします。しかし、世間は「コンビニ24時間営業の見直し」に向けて検討し始めました。実際に大きな<人々の変化>が生まれたのです。Cの数式にあてはめて考えてみると、<①人々に与えた影響>は大きく、<③視聴率>は小さいということになります。それで計算をしてみると、<②その人の世界の見え方をどこまで変えたか>は「大きい」となります。

つまり「記者が最初に書いた原稿に触れた人々は少なかったが、ひとりひとりは原稿の内容に大きく共鳴し、世界の見え方が変わった」と言えるのです。この解釈のおかげで、たとえ視聴率が低かろうとも、原稿を書いた記者の勇気や挑戦や苦労は報われることになります。そしてその記者はひとつ成熟できるのです。

「人々に与えた影響」を測るのは困難です。しかし「人々が変化すること」から、メディアの制作者たちが、たとえ届けた人数が少なかったとしても、勇気づけられ、成熟するということが起きるのです。それが叶うチャンスを得るために、制作者たちに求められる条件はひとつだけです。それは「世界の見え方が変わりますように」という強い信念を持って、誰かに向けたメッセージを原稿や作品に込めることです。

それはもしかすると誰かに向けて一生懸命書く「手紙」のようなものかもしれませんね。それもラブレターや果たし状といった、熱量が高い類いの「手紙」。マスメディアのことを、その果たさなければならない社会的責任を念頭に、報道機関だとか「社会の公器」だとか大仰な呼び方をしますが、メディアの中のひとりひとりの制作者は、とても個人的にオリジナルなやり方で魂を込めた「手紙を書いていく」、それでいいのだと思います。