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【Open Letter】寛生からテルへ、2通目。(2019/11/9)

拝啓 テル様

秋空に泳ぐ鱗雲を見上げた愛猫は、舌舐めずりでしょうか。またはあまりに空が高いから、改札口の向こう側に恋人の背中を見届けるような寂寥の眼差しでしょうか。貴方の返信は、そんな孤高な秋空のようで、僕の想定の標高を軽く超えてくれる素晴らしいものでした。往復書簡の有り難さと温もりで冬を迎えられそうです。

あの怪奇な夜、渋谷の街に繰り出したマウンテンゴリラは、喧騒の道玄坂を登り切ったあたり、神泉に続く交差点のあたりで、はっと我に帰っては、済まなさそうに背の高いタクシーに乗り込んで、中野通り方面の夜闇へと消えて行きましたよ。多分、中野辺りに潜伏するのだと思います。そう言えばテルはあの界隈詳しかったですね。

先日、見知らぬ4歳の少女の涙目に絆されて、中途半端な鬼ごっこをしていましたら、遊具から情けない落下をし、臀部を強打し、それは脳髄がずれる程の衝撃でした。遊具の頂上から浴びせられる少女の高笑いに、大人気なく自らの愛情が枯渇していく感覚を味わいました。

幼少期に注がれた愛情の分だけしか、誰かに愛情を注げないのでしょうか。自己愛や偏愛で蓄えた愛情では、救える半径はたかが知れているのでしょうか。「潜在的な愛情量」みたいな概念を持ち出すのは、冷酷な自分を正当化したいだけの都合のよい解釈でしょうか。特に自己嫌悪しているわけではなく、この生活を慈しめばよい!そういう生業ではありますが。

故に「育メン」って響きの凶悪性を信じて疑いません。むしろ「育」ではなく「イク」であったなら潔く、人類存続のスタートラインに立てる気がします。

それにしても午後4時38分頃まで暮れると、急に肌寒いですね。21世紀半ばは、春秋は、夏冬のインパクトに嫉妬して、期間限定の希少性で四季折々していく様子です。どうかご自愛ください。

寛生より。
RADWIMPS「愛にできることはまだあるかい」を聴きながら。