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カズオ・イシグロ氏の『縦の旅行』論と、コールアウト・カルチャー

京都は桜の季節らしい。

南風先生の誘いで東京に越して居候をはじめる前、河原町丸太町の元春日小学校の裏にある、一階にチケットショップがある建物の6畳間に住んでいた。月収平均8万円家賃4万円、過集中で無理をしては鬱を悪化させて自殺未遂、みたいなことを繰り返していたのだけれど、辛かったことはあまり記憶に残せていない。京都の春の記憶は、概ねうららかである。清浄な空気と、鬱病患者特有のコントラストが過剰な視界の中で、日々、美しい憧憬に溺れていた。思い出したように泳いでいた。それ以外のことはあまり思い出せない。

昨日、知人のひとが鴨川のほとりで”Fly me to the Moon”を数人で野外演奏している動画をあげていて、当時、ふわふわと漂っていた鴨川べりの匂いみたいなものを思い出した。河原町丸太町というのは四条河原町よりも2キロくらい北、京都御所の東、鴨川の西側の通りにある。京都市内の地図は整然とわかりやすい。この飛び石は出町柳のかみのあのへん、などと推測するだけで(記憶は極めてあいまいなので正しいかわからない)、寒暖差が激しい盆地の南風に背中を押されるように、イメージが河べりの道を上がっていく。

京都の街は、学生と外国人と旅人には優しい。人間がきれいに固まっているので、土着のコミュニティに入って行こうとさえしなければ、どこでもソトの人としてもてなされる立場となる。そんな中で、浮草のような人々が、それはそれで固まって生きている(例えば、京都大学の一部の寮では、学生ではない「よくわからない人」が、学生たちに混じって世捨て人のような暮らしをしていたりする)。
 当時の自分は、京都に、というか何処にも根付く気がまるきりなかったので、優しい無関心空間と、ネットや同人イベントで接続された同人創作の世界を行き来するのは呼吸がしやすかった。

当時の「呼吸のしやすさ」、あの、盆地のつんとする空気が、ときおり強烈に吸いたくなる。

京都駅

とはいえ、人づきあいについては、実のところ、東京に移ってきてもあまり変わっていない。

私はついぞ勤め人にはなれず(すんごい頑張ったけど「まともな」社会人レールに乗れなかったので)、パートナーはひとりで会社をやっており、知り合う人はだいたい音楽やってるかテック系の仕事かおたく産業関係者か同人関係者、首都圏出身のひとでも社会的成功はあったりなかったり、総じて地から少し浮いている。あとは昔の同級生。同じ羽根の鳥は集まる、否、うまく根付けない民は、集まらないと生きていけないから、誰かに手を差し伸べたり甘えたり、そうして寄せ集まるのかもしれない。

さて、カズオ・イシグロ先生のインタビューがTLで話題になっていた。本文はけっこう前に読んだもの。これを某アルファ論客氏が「金持ちリベラル批判」として要約する形で引用したことで、べつの文筆家の方が炎上したらしい。その件について、ぼんやりと考えたことを以下に書いていく。

カズオ・イシグロ氏の論旨に関して、私はまったく「インテリ」でも「リベラルアーツ系の人」でもないけれど、身につまされる部分はある。おそらく学識者や、それなりの影響力を持つ文筆家など方が想定されているだろうけれど(そうでなければ「世界中を飛び回る」ことは難しい)、これを「地域や企業に定着する職につかず、既存共同体や企業に根付かない生き方を実践する人々」に置き換えても、それはおおいに思い当たる。

前述のとおり、漂泊民は漂泊民で固まるものであるから、隣戸のひとより、インターネットで繋がる数キロメートル先の仕事相手のほうがはるかに近いのだ。別に裕福ではないけれど。

同じ通りに住む人々と対話できているか――例えば、近所で比較的よく会話する機会がある人といえば、よくコーヒー豆を買いに行く喫茶店の店長さんであるとか。でも、雰囲気的には「敢えて自営業を選んでやっている」趣のお店であるから、思想的な差異はあっても、やはり「近い」人であると言えるだろう。やっぱりコミュニケーションの対象は偏っていく。

東京からパリ、ロサンゼルスなどを飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていないのです。……同じ通りに住んでいる人がどういう人かをもっと深く知る「縦の旅行」が私たちには必要なのではないか、と話しています。自分の近くに住んでいる人でさえ、私とはまったく違う世界に住んでいることがあり、そういう人たちのことこそ知るべきなのです。

とくに自由進歩主義的な生き方において、いかに世界を股にかけようと、そのうえで、「同じ羽根の鳥が集まる」範疇から踏み出さなければその生き方はやはり「狭い」のだ、というのが、カズオ・イシグロ氏の「縦の旅行」論であろう。

経済的にどうであれ、マイノリティに属する人間は、むしろ自由進歩的な価値観に帰依しなければ生きづらい、といったような現状に度々直面する。カズオ・イシグロ氏はイギリス系日系移民という経歴を持つ。そうでなければ生きてゆかれない、といった局面を多く体験しているだろうというのは、想像に難しくない。

さて、イシグロ氏の主張を、所謂「”金持ちリベラル”の傲慢さへの批判である」といった解釈する、及びそれに同意する主張について――曰く、自由主義、個人主義、社会自由主義などの、リベラル的な価値観は富裕層にしか保持できないものである―――「富裕層だから、教育があるから、自由進歩的な価値観に同調できるのだ」。しかし、この雑な解釈には異議を提示する必要があるように思う。

確かに、「横(x軸)」の旅行に対して、「縦(y軸)」という表現は、階級をイメージさせるかもしれない。知的エリートの驕りを連想することも不可能ではないだろう。

しかし、実際のところ、例えば、アメリカ大統領選におけるトランプ支持者と民主党支持者の富裕層割合はあまり差がない。アイデンティティ・ポリティクスへの是非はともかくとして、再配分の強化や、差別の撤廃を求める言説を支持しているのは、べつに「金持ち」だけではない(※1)

 リベラル-反リベラルの対立において、ある人々は、対立論者を悪魔化して、より富める、より豊かな、より懲罰に値する「強者」の藁人形を作りがちだ。彼らは単純な二分法でもって「自分は弱者(あるいはその立場を代弁するもの)であり、強者『たち』を批判しているのだ―――故に己の立場は正統である」と主張する。

くまさん

この主張はつねに間違っている。

行われているのは「弱者性」という旗の奪い合いである。「よりかわいそうなのは誰か?」「より正当に同情されるべきは誰か?」

2019年、バラク・オバマは、激化する右派・リベラルの対立の中で、「自分が進歩的であると証明したい若者」による「コール・アウト・カルチャー」を批判した。

最近は特定の若者がこのカルチャーに毒されていて、ソーシャルメディアを通じてますます過激になっていると感じることがある。つまり、『俺はできるだけ他人を非難して、相手にいい加減にしろと言い放って、世の中を変える。あいつの行いは間違っているとか、あいつは文法すら知らないで喋っているとツイートしたり、ハッシュタグしてやるんだ。世の中のために良いことをした俺は気分が良くなって、あとは傍観者を決め込む。……こんなものは行動主義じゃない。こんなやり方で世の中を変えることなどできない。

コール・アウト・カルチャーに興じる人間は、リベラルにも、反リベラルにもいる。このゲームで重視されるのは事実や客観性ではない。他者の自己憐憫やメサイアコンプレックスを刺激し、より器用に自分の主張の正当化に利用できる、もっといえば、リスクヘッジが容易く、人を動かすことがうまく、対立論者を(物理的に、あるいは言論的に)黙らせることができるものが、よりつよい発言権を得る。
最後にこのゲームを制しうるのは、一定の知的財産を持つ者が、暴力性に長けた者、富める者である。リベラルであれ、反リベラルであれ、弱者の旗を強者が弄ぶ形にしか着地しない。

リベラルであろうが反リベラルであろうが、そこに「弱者への優しさ」「進歩性」「助け合い」といったような徳性は残り得ない。仮にあったとしても、それらを遥かに超える怒りのムーブメントによってあっというまに蹂躙されてしまう。日本などはまだましなほうで、前述のアメリカ大統領選においては、コール・アウト・カルチャー、キャンセル・カルチャーの激化が、リベラル-反リベラルの暴力の応酬として日常化していたことは記憶に新しい。

さて、ここまでの意見に対して、おそらく、このように言うひとがいるだろう。リベラルであれば「ネトウヨは?」反リベラルであれば、「フェミニストは?」

 そうではない。リベラルだろうが反リベラルだろうがネトウヨだろうがフェミニストだろうが、コールアウト・カルチャー、キャンセル・カルチャーの快楽に興ずるひとは多い。自分自身、多いに自省するところでもある。

 カズオ・イシグロ氏の論説は、リベラリストの内省であると同時に、「意見を共有することが容易い世界から出ることとなく、感情を優先して、コールアウト・カルチャーに加担する」行為全体に向けられている、と自分は考える。
 昨今のSNSを含む言論の世界への批判としては、オバマ前大統領のほうがスマートかもしれない。とはいえ、カズオ・イシグロ氏の「同じ通りの人々と語りあわねばならない」という主張は、自由進歩主義的な世界観で生きる小説家の内省ではあるけれども、インターネット格差や分断を論じようとする限り、誰もが「自分事」として受け止めるべき内容を含んでいると思う。

直近のさる(別の)インターネット炎上騒動について、東浩紀氏がこのように意見されていた。

感情優先社会の住人、「問題を大きくしたいひと」に、問題は解決できないし、「あいつらが悪いんだ」といコール・アウト・カルチャー的な態度をとりながら「分断」を嘆いてみせたところで、分断の強化に加担するほかはないのでは、と愚考する。その先にあるのは、持たざるものから潰されていく社会であろう。

なお、私は「冷笑系」なる言葉も好まない。

(※1) なお、富裕層以外だと、トランプ支持者は中流層に、民主党支持者は貧困層に寄っている。

カズオ・イシグロ氏のこの記事については、もうひとつ考えたことがあったのですが、それは次の機会に。

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