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2015.8.19.ゲンロンカフェ、津田大介×初沢亜利×東浩紀「デモは辺野古を止めるのかーー『沖縄のことを教えてください』刊行記念鼎談」をめぐる私的メモ

 8/19のゲンロンカフェ、津田大介×初沢亜利×東浩紀「デモは辺野古を止めるのかーー『沖縄のことを教えてください』刊行記念鼎談」と、それをめぐる沖縄に対するいろいろと、あの日買った初沢さんの『沖縄のことを教えてください』について。

 イベントは、かなり充実した夜で本当に面白かったというのが率直な感想。(トークのメンバーには途中から登壇された熊本博之さん以外沖縄についての研究者はおらず、沖縄出身者もひとりもおらず、それなのにここまで踏み込んで沖縄の話を聴くことができ、その場に能動的に足を運ぶ人がいるというその状況が既に)『嬉しかった』というのもある。こんな時代がきたんだなというじわじわくる感慨。先だって小沼純一先生のゼミで話をさせていただいたときに知り合ったひとまわり下の同郷の後輩Nくんが来場していて、やはり「嬉しい」という感想を残していた。ちなみに、熊本さんと知り合って10年近くなることにあの日気づいたのだけど、去年の熊本さんと津田さんの邂逅自体が私にとってはそもそも嬉しかった。

 東さんが話されていた“沖縄は中央(東京)に対して『わかってほしい』という承認欲求ではもう向かわず、あいつらわかんねーから、とはっきり線を引き独立(実際今すぐ独立を目指すとかいう短絡的なことではないけど)の準備を常にしておくべき“というような内容に対しては、“いやいや、なんで圧倒的不平等に歯噛みし続けてきた沖縄がそこから更にすすんで自分の国の中央と戦わなければいけないのか、筋が違うだろ”というような反発も絶対あるとは思うのだけど、沖縄における基地をはじめとした問題の実践的な話をするにあたってはそういった『県民感情』の論点を切り離して考えることのできる場がもっと必要だし(沖縄への理解が深まってきたことで)そのことがアンフェアにならなくなってきた気がする。
 (沖縄が一地方自治体として日本国の内側に存在する限り、たとえば当然米軍基地の問題にしても多数決をとれば置き場所が沖縄に落ち着くのは火を見るより明らかなのであって)この国の一部とはそういうことである、という話が東さんからあったと記憶している。もっといえば“沖縄問題は地方自治の問題というよりこれは少数民族問題では。そして独特のアイデンティティがあるならば自立へ向けて意識的かつ戦略的になるべき。主体的に動ける準備を対外的にも対内的にも自分たちですべき、準備はいつだってできる。(Facebookページ開設しろ…!)”というような趣旨のことを仰っていたと理解している。
 日本と沖縄、アイデンティティはどちらにあるかと問われれば、わたしの場合日本人であるより先に沖縄人だという意識はくるもののどちらも併存している。国籍は日本だし、日本のコンテンツで育ってきたし日本国のパスポートを持って海外に行く。沖縄の、日本に対する多様かつこじれきった意識。たしかにもっと精神的に日本という呪縛から解き放たれてもいいかもしれない。

 地雷だらけの沖縄問題(乱暴だけど便利な四文字)を前に、「沖縄のことを全く知らない」を繰り返しながら、「俺はなんでこんなこと話してるんだろう」と自嘲しながら、白ワインを次々におかわりしながら、“(多数決をとれば、沖縄のことはぶっちゃけ関係ない、が本心の)東京に期待するな”的な話をされる(せざるを得ない)東さんの姿はとても繊細に見えてなぜか鋭い言葉も抵抗なく入ってきた。そして、私がそこにいち沖縄出身者として感じるひっかかりはすべて初沢さんが横から即回収しすごい熱量と明晰な言葉とトピックで代弁してくださっていて、その滞在期間に比して深すぎる沖縄に対する理解度にただただ驚いた。おそらく会場の全員が感じたに違いない津田さんの見事すぎる司会術(スピーディーな言い換えによる込み入った文脈の翻訳+適切な問いかけ)、辺野古研究者でありローカリティを汲み取ることの重要性を説く熊本さんの登壇、によって、話の内容はざっくばらんでありながら説得力もあるという謎にバランスのとれた面白いイベント空間ができあがっていた。
 「琉球」と「沖縄」の言葉遣いの混同に対する違和感を指摘される熊本さんの姿が、沖縄研究の場でなくゲンロンカフェで見られる状況が感慨深く、返す返すこんな時代が来たんだなあと、しみじみしてしまう。津田さんが去年ポリタスで沖縄県知事選挙の濃密な特集をされたときも私は泣けてしまうほどに感動したのだけど、世の中は変えてくれる人がいて変わっていってるんだなと実感する。同時に沖縄問題の根深さはここまですさまじかったのかとここ1年ポリタスの記事をめぐるウェブ上のコメントや津田さんのツイッターを見ていて痛感しているし、実際眺めているだけのはずの私の心が折れていたりする。

 最初に少し触れた、たまたま私の中学・高校・大学の後輩であり家もかなり近所であるNくんとイベント後話したら「沖縄はもっと批判されるべきですよ」という、10年前の自分と同じことを言っていたのが面白かった。
 大学進学を機に沖縄から東京にきて10年になる。在沖時代は沖縄の嫌な部分ばかり目についた。今ならここ東京から眺めながら、あの鬱屈とした感覚の構成要素には「構造的差別」が誘発するものが多分に含まれていたのだろうと理解できる。朝刊の見出しにはよく日本政府や米軍に対する怒りが表現されているが、状況はずっと変わらない、変えられるだけの力量が沖縄にないことへの情けなさや苛立ちや、それに輪をかけて圧倒的に無力な(何ができるのか、何がしたいのかすら腹をくくれていない)自分自身に対する歯がゆさと失望、そういう話をしても「すごいね、いろいろ考えてるんだね」という感想しか返ってこない同郷の人間に対する失望、会話に論理性がないこと、果てはゆいレールで向かいの席に座った老女が脚を閉じずにだらしなく座っていることにさえ自分の中の『だめな沖縄』を勝手に重ねて憤りひとりで無駄に疲れ切っていた。でも今は違う視線で沖縄を見ている。沖縄には、解決のかなわぬたくさんの矛盾を黙って背負い生活しているひとがたくさんいるのを今は知っている。だから、批判されるべきであると同時に批判されるべきでなく(気がつくといつも相対化の樹海にいる)沖縄に暮らす、日々の生活で精一杯な多くのひとたちにとっては、黙る、なあなあにしてかわす、という態度は、必ずしも不誠実さや怠惰だと一蹴することのできない重圧や痛みや知恵を内包していることを知っている。
 10年前は、人と沖縄のことを話していても手が震えるほど怒ったり涙をこらえるのに必死なときがあるほど沖縄を受け止めきれずまたそんな自分に耐えきれなかった。当時に比べれば今は驚くほど冷静でいられるようになったが、今度は、10年も沖縄を離れた自分が沖縄を語っていいのかという問いが浮かぶ。だから『生まれ育って10年離れてる一個人の感覚からですけど』という前置きをいちいちよくつけるようになった。 

 イベントの後半でコメントを求められた際私が歯切れ悪く言った感想、“沖縄は仮に独立の準備ができて独立したとしても長い時間の中で見たらどうせまた侵攻されたり吸収されたりするのではないか、そういう諦観が沖縄にはどこかあると思う、だからそれをのんで生きていく術がもしかすると明るく楽しい音楽だったり、のらりくらりした態度なのではないか・・・”には、東さんの言葉をお借りすればある意味『わかって欲しい』という承認欲求が内包されている自覚があった。この『諦観』について触れておきたかったというのはある、つまりぼやきも混じっていたと思う。言わなければよかったとは思わない。初沢さんがあんな風に沖縄の心情的立場に沿ったトークをされていなかったら言えなかったと思う。重要なのは、私がこれをウェブの片隅ではなくあの場で発言したとき『私には(沖縄にルーツを持つ立場として)いかなる発言の権利も与えられていたし、この空間ではそれが当たり前のようにいま許されている』とわざわざ感じたのは、私個人のたんなる自尊心の変化のみならず、沖縄問題をめぐる空気の潮目を象徴しているような気がするということだ。
 いつも沖縄のことを考えると自分の中に言葉にすらならない感情の断片が一斉に浮かんで、何も言えなくなる。イベント終了後東さんの話を聞いたあと、その場で瞬時に語るべき言葉(ワザ, arts)を獲得しきれていないのは自分の怠慢なのかもしれないと思ったりして反省した。

 初沢さんの『沖縄のことを教えてください』の巻末の文を読み終えたとき、こんな風に沖縄を見ようと試みてくれる人がいるのだと素直に感じ入った。
 私の感覚からすれば、ナイチャーという言葉は若干侮蔑的な意味を含んでいるはずで(そうじゃない感覚の沖縄の人もいると思うけど)、日本本土の方のことはヤマトゥンチュと呼ぶ方がフラットだと思っている。初沢さんも自身の体験から、“(沖縄では)未だにナイチャーに対する嫌悪感も引き継がれている”と書かれているが、そういうケースは確かにあると思う。私は嫌悪感を持っていないけれど、1960年代の東京でまさに「朝鮮人・琉球人お断り」という貼り紙でもって部屋を貸してもらえなかったり「沖縄はまだ土人がいっぱい歩いてるんだろう」と無邪気に言われた父の記憶を継承してはいる。
 仲良くなってお互いに信頼感が芽生えたり家族になったりしたら『ナイチャー』でも『ヤマトゥンチュ』でも『ウチナーンチュ』でもなんでも関係ないと思っている。もともとウチナーンチュでない親族が私にもたくさんいる。でも親族はそうであったとしても、もう少し大きい沖縄社会の枠のなかでは『ナイチャー』だと眼差され苦労することもあるだろうし絆に理不尽なヒビが入る可能性もあるだろう。『ナイチャー』をめぐる感情はケースバイケースで二元論でできる話ではない(沖縄やそれに類似した状況に置かれた地域のことを考えるとき、二元論でできる話自体、基本ないと思う)。

 私には、沖縄にいる友人以上に心を通わせた東京で出会った友人がたくさんいて、彼らは日本人や東京人である以前にほかのだれでもない私にとってのAちゃん、Bくんである。目の前にいて友達になろうという人をウチナーンチュかヤマトゥンチュでカテゴライズしようとは思わないししたくない。けれど、初対面の人に「どこ出身ですか」と訊かれ、「沖縄出身です」と答え、九分九厘「いいなあ、沖縄本当に大好きなんですよ!」という反応をもらうたび「それはよかったです」と返しながら単純に嬉しく思う反面、彼/彼女らの心象風景によって否応無しに彼/彼女らと自分との間に差異化が起こるのを感じ、反射的に『でも、いつ沖縄出身であることを理由に差別される時代がやってくるかわからないよなあ』と思ってしまう。これからも思うと思う。そこに怒りはなく、単純にそれが人だと思っている。沖縄での楽しかった思い出を幸せそうに話す人の顔を見るのは好きだが、あんまり彼/彼女らの話に興が乗ってくると、その嬉しそうな目を見ながら『楽園一辺倒な場所なんてこの世にないと思うよ』と心の中で思う。一方、沖縄でタクシーに乗ると、赤の他人であるタクシーのおじさんが『あんた彼氏はいるの?彼氏ナイチャー?まだ結婚してないの?ナイチャーと結婚しなさんなよ、ナイチャーは冷たいからね。あんまり親を泣かさんでもう沖縄帰ってきたらいいさぁ』と(親切心で、親身になって)説教してきたりする。そのあまりの個の境界の無さ、人権の尊重されなさに苦笑いしながら『おじさん、わたしの周りにナイチャーと呼べる人は一人もいないさ』とまた心の中で思うのである。さらに、沖縄出身の人に「沖縄のどこね?」と訊かれ「那覇市です」とか答え「那覇市のどこ?」となって「首里です」と、同郷なのに山之口獏の詩みたいな展開になったりすることがあり、結果「首里か」と舌打ちされたり表情が変わったりすることがこれまで何度かあった。琉球王朝が残した禍根かあるいは首里の人間がしがちだった地域差別の恨みが脈々と受け継がれている証拠である。そのたびに肩がずしりと重い。いろんなベクトルで怨恨が交差する世界はたいへん面倒臭いが面倒臭いと言った瞬間自分にブーメランしてくるものだらけで、私はまだ、沖縄に住んで健全な精神を保てる気がしていない。

 初沢さんの写真集のページを繰りながら浮かぶ言葉は“cool”(かっこいい)。冷静だ、と思う。初沢さんが目指されている「実存×政治×美学」を1枚1枚の写真に重ねてみる。ふと、初沢さんは沖縄に「実存×政治×美学」を用いてどこに辿り着きたかったんだろう?と素朴に思った。写真集の巻末の文中にある「沖縄の何を撮ろうとしているのですか?」という問いに近いかもしれないが決して悪意はない。裏を返せば私が思ったこととは、『初沢さんという表現者が沖縄を通して何を表現しようとしてどこに辿り着こうとしているのかという、いち表現者としての興味関心』であるとともに、そこにはほんの少しまさに『沖縄のことを教えてください』という気持ちも含まれる。沖縄はどんなことを求められているんですか、ということだ。沖縄はいま、否応無しに人の命を奪うためのポートとして機能しているという側面を持つ。でも、沖縄にはいいものを生み出すポートであってほしい。ものづくりの奇跡が生まれ出るポートであって欲しい、というごく個人的な願いがある。私は初沢さんの写真集を見て、このcoolさを保ったまま、この世のものではないようなすごい境地に、生命力の赴くままに辿り着いた写真が見たいと思った。もしかするとそれは、もっと沖縄と一体化することによって沖縄への気兼ねなしに撮られることでしか生まれない画かもしれなくて、わたしの中の勝手な沖縄像はそれでこそ報われると思うのだけど、でも、でも、その対象は別に沖縄じゃなくてもいいし、そもそもこれは私の勝手な妄想なので、まあどうでもよくて、とにかく初沢さんがこれからどんな土地でどんな関わりかたをして「実存×政治×美学」を使ってどこに行くんだろうと興味が湧いたのだ。この、とても美しくて真摯な写真集にいま愛着を抱きつつあります。眺めていると、私は沖縄の何を知っているわけでもないことに気づく。初沢さんの写真に、知らない沖縄を教えてもらっている。

ありがとうございます!糧にさせていただきます。