有馬湯女/八上桐子(川柳)×升田学(針金アート)(葉ね文庫) ゆらゆらの〈こと〉

ぜんぜん時間をかけて観たわけではないけれど、針金と腰紐と文字、その気配と影がきれいだったので。


句や歌や詩を、文字で読むとはどういうことだろう。

書かれた文字を読むことは、複雑なはたらきを生むということ。

書かれた言葉を体で受けとめた衝撃が自分のなかで解釈されようと呼吸し震動しつづけるはたらき。その間にも書かれた文字はわたしの目に入りつづける。わたしは文字のもつ、言葉をその言葉の起源に立ち戻らせようとするはたらきを常に感じつづけるということ。

その、言葉自らが立ち戻ろうとするはたらきもまた、衝撃を受けて拡散したり逃げていこうとする読み手をも震わせつづける。ある意味矯正しようとする。時空間や直感、つまり読み手の立ち方を揺さぶりつづけるはたらきを発生させる。


歌や句を表すということはどういうことだろう。

川柳は情そのものを表したい器、構造、詩形…なのかもしれない、とも思った。人が抱える何かわからないものをたとえば〈情〉と名付けたら、情はたとえば〈うらみ〉〈つらみ〉〈よろこび〉〈かなしみ〉などという形をとって現れる。

人は何かわからないものの説明をつけたがる。うらを見ようとして、つらを見ようとすること、うらをわかろうとして、つらをわかろうとすることは、うらを見せ、つらを見せること。わかることは説明をつけることとは違うけれど。

見えないとき、わからないとき、それを表現することで何かわからないものにすこし近づける気配がある。ただ、そうして謎は深まり、道がどんどん現れる。結局見えないしわからないはず。


見えてもわかっても意味がないし、ましてや説明しても意味がないけれど、どちらにしても人はその何かわからないものに引きつけられる。

人はその〈うら〉や〈つら〉に揺さぶられる。揺さぶられるのは、現れ、表すという行為によって自分の影が意識されて共鳴するから。共鳴して〈うらみ〉〈つらみ〉をつくる。人は自分が立っていられなくなる身を守るためにわかろうとするともいえる。



川柳は腰紐に書かれていて、でも、針金も腰紐も影ももちろん文字だろう。

その、ゆらゆら揺れている〈こと〉を眺める感覚が気持ちよかった。



エクリチュールとは、まさしく、文法上の種々の人称と言説の種々の起源とが、混じり合い、入り組み、見失われ、ついには評定しがたいものとなる空間にほかなりません。エクリチュールとは、人間(作者)の真実ではなく、言語活動の真実を示すものです。

(ロラン・バルト 花輪光/訳『記号学の冒険』)




有馬湯女 八上桐子(川柳)×升田学(針金アート)

葉ね文庫にて10月初旬頃までとのこと。



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