2003年11月

そのデザイン事務所は社長のアートディレクターに、秘書的な総務の子と、デザイナーさんが3人、システムやさんが1人とわたしという、めちゃ小さな個人事務所だったけど、最初は羽根木の森にオフィスを構えてて、社長は黒しか着ないし、事務所のタオルやスリッパは全部Y’sだったし、とにかくオシャレって感じが満載だった。社長はもちろんバブル世代で、いかにもなプレゼンで、それなりに有名なアートディレクターだったらしく、わたしを採用したのは、彼がグラフィックからWebに力を入れ始めていた時だった。

世間的にもWebマガジンが流行り始めてきた時代で、いろんな企業が自社サイトに読み物的なコンテンツを増やしさえすれば、何となく、ブランディングに役立つんじゃないか、と錯覚してた時期だった。

おかげで、プランナー未経験のわたしでも、転職してすぐに、社長と一緒に作った企画で、代理店とのコンペに勝ち、コンテンツを山のように量産することができて、プランナー兼ディレクターとして、スキルを磨くことができた。これまで、記事しか書いたことがない人間が、初めて、コピーを書いて、自分でプレゼンした企画を自分でディレクションして、サイトを作っていったのだ。

同時にめちゃくちゃ忙しくなってきて、わたしは身体を壊し始めた。その頃は全く気がつかなかったけど、一日中、小さな事務所でみんなでお昼も夜ごはんも一緒に食べて、遅くまで仕事をしてたのも、きっときつかったんだろう。

正確に言うと、2003年の11月に一度パニック障害の発作が出て、そこからゆるやかにうつ病に移行していった。

呼吸困難になったとき、わたしは、当時、不安神経症を発症していたあるミュージシャンにメールした。彼が始めたビッグバンドの大ファンで、伊藤くんが作った雑誌が縁で、大学卒業後も仲良くさせてもらっていたのだ。

彼は、「怖いところではないから、病院に行きなさい」とアドバイスしてくれた。適当に選んだ新宿の病院に行き、診察室に入るやいなや、わたしは号泣し、取り乱した。先生が、パニック障害だね、と言って、薬をたくさんくれた。

薬局に行っても涙が止まらず、路上でも構わず泣いた。メールの最後には、「終わったら電話しなさい」と書いてあったから、わたしは泣きながらその人に電話した。

電話の内容はよく覚えてないけど、その人と話してるうちに落ち着いてきたことはよく覚えている。俺の方がもっと大変だ、とか、言われて、思わず笑ってしまったような気がする。

薬を飲みながら、騙し騙し事務所に通っていたけど、どうにも午後から夕方にかけて、ダルくて全然仕事ができない日々が続いた。でも、なんとか、身体を振り絞って、事務所には通い続けた。

新宿の病院は合わないな、と思っていたとき、元彼の知り合いの、ヒロ兄の紹介だったか、自由が丘のメンタルクリニックがいいよ、と言われて、病院を変えた。確かに、そこの主治医はなんか良さそうな感じがした。











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