常空の丘(後)

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また、数日が過ぎて、ハイクは王都へと戻っていた。
荷物をすべて引き払う、といっても、元々が元々の狭さなので、大して重労働でもなかった。五年暮らした部屋がこんなにも呆気なく片付くのかという思いもあるにはあるが、無意識のうちに、いつかこういう時がくるかもしれないと物を増やさないようにしていたのかもしれない。家具はすべて売り払い、それでも一番大きな本棚と、青い椅子を残したのはアリアのためだ。きっと泣かれる、と思って、別れは言わずに発つことにした。
壁と床を洗い、布巾で隅まで拭いているうちに、午前中が終わった。昼過ぎ、荷物を纏めていた時に、開きっぱなしのドアをこつこつとノックされ、顔を上げると、めずらしく私服姿のフィデリオが立っていた。
「やあ。見送りに来たよ」
「そりゃあわざわざどうも。今日は非番か?」
「うん、やっと落ち着いてきたからね。使ってなかった分の休暇も溜まっていたし」
件の世界樹討伐作戦の話は、民の中で転がっていくうちに、思いつく限りのあらゆる装飾、尾びれに尾羽がぞろぞろと付け足され、すでに伝説としての風格を放ちつつある。フィデリオ率いる小隊も例に漏れずその作戦に参加していたらしく、おかげでハイクは、生のままの話をフィデリオから聞くことができた。あの巨大な世界樹を真っ二つに斬るなんて、全く王はとんでもないことを考えなさる。ただ、実際に前線に立って指揮を執ったのは、まだ成人前の王女様であったらしい。
「それにしても今回は、まんまときみの策に乗せられたよ」
「さあ、何の話だかな」
ふふん、とハイクは笑った。壁の世界地図を剥がし、丁寧に折りたたんで、荷物の中に入れる。それを眺めながら、フィデリオが改まって言った。ハイクは手を止めずに聞く。
「一つ、報告があるんだ」
「おう」
「昇格が決まった。もうじき辞令が下りる」
「へえ、おめでとう、流石じゃないか」
わざと驚いたような声を作ると、フィデリオはたちまち憮然とした顔になり、腕を組んで、むっつりと壁に寄りかかった。
「最初からこうするつもりだったな」
「まさか。俺はただ、おまえとの約束どおり、起こったことをまとめて、報告しただけだよ。真なる史はちゃんと見てきたか?」
「関係者として、しっかりとね。でも、僕は、青の神殿の第一発見者でもないし、真なる史を見つけてもいない」
「けど、神殿で見つけた壁画の謎を解き、浮かび上がって来た一族と交渉して、技術協定を結んだ。おかげで國はまた一つ、古代の英知を手に入れた。そうだろ?」
何とも言えない顔で、フィデリオはハイクを睨んだ。まだ報酬のことを気にしているのだろう。ハイクは平然と笑った。旅の資金は大切だが、必要以上に荷物が重くなるのはいけない。それに、ハイクが被験者の生き残りであることが國に知られれば、それこそ気ままな旅どころではなくなってしまう。
「まだまだ、國は復興途上だろ。アグニの技術は、近いうちに必ず必要になる。なら、國が持つべきだ、そうだろ」
数秒、フィデリオはハイクを試すように見つめていたが、やがて諦めたのか、深々と息を吐いた。
「……彼らが過去にしたことは、紛れもない罪だ。そんな人々の手を借りるなんてと、騎士団の内部にも、そういう非難の声はあるよ。でも、そんなに大昔の出来事を裁く法なんて無いし、少なくとも、僕やきみが知っているアグニの一族は、思慮深くて、才能もある人々だ。時間は掛かるかもしれないけれど、きっと彼らは、最後は國の功労者として、皆に迎えられるだろう。僕が必ず、そうしてみせる」
「……悪いな、面倒ごとを押し付けちまって」
「そういう言い方をしておけば、僕が怒れないと思ってるんだろう?」
「うわ、バレたか。中々鋭くなったな」
それじゃあ、そんな小隊長殿に、昇進祝いをやろう。ハイクは椅子に歩み寄ると、無造作に乗せられていた木箱を持ち上げ、フィデリオに放り投げた。フィデリオは危なげなくそれを掴み取ると、蓋を開け、中を覗き込む。
「これ、ひょっとして」
「だから言ったろ、昇進祝いだって。ただし、カルミアからの、だけどな」
箱に収まっていたのは、緑色の硝子玉、もとい、竜核だった。しかもそれが、大小二つある。それが一体どういう物か、フィデリオも察したらしい。
「そいつを、王墓の一番奥で寝てる機械人形に嵌めてみな。二人とも、きっと良い働き手になる」
フィデリオは静かに、青色の目を見開いた。しかしそれは一瞬のことで、すぐに仕事の顔で「分かった」と鋭く頷く。お互い五年で変わったものだ。噛んで含めるように、そう感じる。
「ついでにもう一つ、置き土産だ。ゼーブルの地下に水が流れているのは知ってるか」
「それは駄目押しと思っていいのかい」
「まあ、そうだな。で、どうだ、知ってるのか」
「聞いたことはあるよ。灰に等しい地質なのに、なぜか地下水が湧く井戸がある、って」
「お、流石だな。ちなみに、そいつは湧き水じゃない。れっきとした水道水だ」
ここまで言えば、自ずと分かるだろう。レイクァの機構と、ゼーブルの設備。細かな構造は違うが、やっていることは同じだ。レイクァの山でできるのであれば、ゼーブルでも同じことは可能だろう。自然そのものの代替えとして、大地の水を循環させる、そういうことが。
「あの都市に生えた木がどんな花を咲かせるのか、おまえだって見てみたいだろ」
「……カルミアさんに、ゼーブルの調査を依頼することにするよ」
「そう来なくっちゃな」
からりと笑って膝を叩くと、ハイクは鞄の紐をしっかりと纏めた。最小限のものしか入れなかったので、然程の重さではない。
ハイクは立ち上がり、荷物を背負う。その間にフィデリオはすでに外に出て、ハイクを待っていた。
最後に部屋を見渡し、壁を手のひらで撫でる。冷たく、ざらざらと指に引っかかる感触を味わってから、ハイクはフィデリオの元に歩いて行った。
「もういいのかい」
「ああ」
水晶灯のランプを消し、ハイクはそっと、部屋の戸を閉めた。

余談だが、地上に出るまでの道すがら、疑問に思っていたことを、フィデリオに尋ねてみた。
「そういや、どうやって世界樹を倒したんだ? 斬ったって言ってたよな」
「薬で弱らせたんだよ。なんの薬かは分からないけれど、錬金術師が調合したらしい」
「城の錬金術師っていうと、宮廷錬金術師か?」
「いいや。薬を作ったのは、その弟子なんだってさ。僕も作戦の時に見たけれど、僕らと同い年くらいの、若い術師だった。それで、弱ったところを、王女様が自ら」
「叩き斬ったってのか? 一人で?」
「僕らもまさか、と思ったけどね」
その時のことを思い出したのか、フィデリオは苦笑した。どこか楽しそうな、柔らかい笑い方だ。
「一人で、やってしまわれたよ、殿下は。それは長くて鋭い、風の剣を使ってね」
「風の」
かちりと、何かが嵌まる音がした。
なんだ、そうか。そういうことか。どこぞの良家のお嬢様と付き人かと思っていたら!
ぶふ、と、ハイクは噴き出した。辛抱堪らず、大きな声で笑い出す。ああ愉快だ。本当に、最後まで痛快な二人だ。
おかしくなったと思われたのか、フィデリオの借り物の力で、頭から思い切り水をかけられた。

     *

フィデリオと並んで、城門まで歩いた。色々被せてしまったが、旧友は腹の中で、可及的速やかに復興の基盤を築き、手法を作り上げて安定させ、果て越えの作戦を復活させる、という、なんとも逞しい構想を練っているらしい。ハイクはひっそりと安堵した。本人には未来永劫言うつもりは無いが、「必ず、あの海の向こうに行くんだ」と、そう言って前を見つめる横顔が、最もフィデリオらしい、と、ハイクは思っていたからだ。どうやら似たような感情はフィデリオの方も抱いていたらしい。ハンターを辞めるつもりはない、と言い切った時に、ほっと胸を撫で下ろす仕草をしたのはこの男くらいだ。
留まる必要が無くなった。だから、流れていく。
好きな場所に行き、好きな物を見る。ハンターとして各地の伝承を紐解き、歌や物語として語っていく。それが、黄昏が終わってから、ハイクが考え、己と向き合い、導き出した答えだった。
城門前に到着すると、フィデリオは何のてらいもなく、騎士らしい真っ直ぐな動作で、ハイクに右手を差し出した。
「きみの破天荒な噂話が届くのを、楽しみにしているからね」
「俺が果て越え部隊新隊長就任の知らせを聞くのと、どっちが先かな」
「うん、努力するよ。……それじゃあ、またね」
「ああ」
短い握手。さっぱりとした挨拶だった。互いの好きなように歩き続けていれば、どこかでまた会えるだろう。根拠はないが確信はある。そして大概、そういう確信というのは、よく当たるのだ。
友に背を向け、軽やかな歩調で、ハイクは歩き出した。
初めに目指す場所は、もう決まっていた。

     *

世界中の雲は、世界樹亡き後の長雨で、すっかり地上に落ちてしまったようだった。雨に洗われた草は生き生きとした緑色を取り戻し、その香りをまとった、柔らかくて大きな風が背中を押し、ハイクの歩みを助ける。
空は今日も、涼やかな快晴だ。
五つの山を越え、二つの平野を跨いで三つの大河を渡り、ついにハイクは、この広大な大陸の、東の果てへと戻ってきた。
夢にまで見た、緑の丘を見下ろす。なだらかな斜面を下り、草の海を進んでいく。
ここが、門があった場所、ここが、自分と母の家、風車。草に覆われかけていたが、焼け跡は未だに残っており、破壊された建物や裸の土が示す、おおよその里の地理を頼りに、ハイクは協会があった場所へと足を踏み入れた。
地下、と長は言っていた。注意深く足元を探してみると、草と一体になりかけた瓦礫の下に、小さな石段があることに気付いた。この場所はおそらく、祭壇の真下に当たる。
携帯用のランタンに灯りを灯し、ハイクは石段を下りて行った。深くはない。地下の隠し部屋は、小さな書物庫になっていた。紙の本ではなく、もっと、もっと古い、石板で出来た書物だ。現存していることすらも、奇跡と呼べる一品である。ハイクは長い時間を掛けて、一つずつ丁寧に、石板を読み解いていった。記されていたのは、歌や、物語の原典だ。おそらくそれらは、ルドラ以外には知る者すら居ない、かわたれの時代の作品なのだろう。ルドラの先祖自身が綴ったものもあるのかもしれない。拙い文字で彫られた、というよりは、堅い爪を必死に動かしたようないくつかの石板を見た時に、それは疑いようもない事実となった。
記された旋律が、音が、物語が、目で辿っていく側から再現され、真っ直ぐに胸の中心を貫いてくる。
魂に、鋼玉の心に響いてくる。一つ石板を読むたび、響いた余韻を噛みしめるために、手を止めた。確かに、繋がっているのだ。自分と、この石板は。物語は、歌は。そして、それを聞いた人々もまた、繋がってゆくのだろう。皆緩やかに連鎖し、繋がり、そうして出来上がった大きな輪が、きっとこの國を回してゆく。ハイクは、ハイク・ルドラとして、その輪を回す風の一部となろう。自分にはそれができるはずだ。この魂と、伝える声があれば、あの時計台で犬と心を通わせられたように、大鷲の檻を壊せたように。
嵐を起こせよ、ハイク。
うん、分かったよ、長。言葉にせずに呟いて、そっと最後の石板を棚に戻す。持っていく必要はない。もしも忘れてしまったら、また戻ってくればよいのだから。
なあ、そうだろう、みんな。

地上に出て、深く、深く呼吸する。芳しい草の香りを吸い込み、ハイクは空を仰いだ。雲一つない、見惚れるほどの紺碧だ。
「なんにもないな」と、竜が長い睫毛を伏せる。
「そうだな。でも、全部ここから始まったんだ。俺の全部は、ここから始まったんだよ」
風に吹かれながら、歌うようにハイクは言った。母親譲りの深い声だ。母が食われ、皆が死に、この地が黄昏に呑まれて、すべてが動き出した。すべてが始まり、そして終わり、また一つ、新しい世界が始まろうとしている。世界樹は死んだ。だが、ハイクは夢で見た。一人の男の悲しみの物語を。あれが真であるならば、黄昏がこの世から完全に無くなることはない。なぜならば、黄昏もまた人間の営み、感情の一つに過ぎないからだ。
いつの日か、黄昏と共に踊れる日も来るだろう。
つまりそれは、黄昏と共に、生きられる日が来るだろう。
誰の中にもあるものとして、共に、共に、共に。
「そういや、今更なんだが」
「なんだ、ハイク」
「おまえ、名前はないのか?」
「……本当に今更だな」
はああ、と、竜が溜め息を吐いた。ところが、鼻を鳴らした竜が堂々と「アギラ」と答えたので、今度はハイクが溜め息を吐いた。
「分かってないな。そいつは名前じゃなくて呼称だ」
「そうはいっても、それ以外で呼ばれたことはない。そうまで言うならおまえが付けてくれ。それなら、文句は言わん」
「俺?」
ハイクは考え、天を仰いだ。名前といっても、男女で色々である。
「そういえばおまえって雄なのか、雌なのか」
「雄雌問わず、あらゆる動物が居るからな。まぜこぜだ」
「まぜこぜ、そうか……。なら……“ヴォランツァ”」
「意味は?」
「飛ぶ者」
ヴォランツァ、ヴォランツァ。発音を繰り返し、竜はゆったり笑って、ハイクの声を真似た。
「 壊してくれ。
飛んでくれよ。
さあ!」
「また懐かしい話を引っぱり出して来たな」
ハイクはその記憶力に半ば呆れ、頬を掻いた。改まって昔の言葉を蒸し返されると、些か恥ずかしい。
「気に入った、ということだ。ヴォランツァ、いいな、それにしよう。歩く者と飛ぶ者で、ちょうどいい」
「お気に召されたようで何よりですよ」
「うん。それで、これからどうする?」
「そうだなあ。どうしようか」
どうしよう。どこへ行こうか。ほんの少し前まで、目的地を失うことを恐れてすらいたというのに、今はそれを探すのがこんなにも楽しい。
「おい、ハイク」
「どうした。もう少し考えさせてくれよ」
「いいや。誰か来るようだぞ」
「は? こんな辺鄙な場所に、誰、が」

言いながら、すでに耳は拾っていた。

鼻歌だった。風に乗って、誰かの鼻歌が聞こえてくる。聞き間違えるはずもない、それは、ルドラの子どもが、一番初めに習う歌だ。辺りを見回す。見渡す限りに続く平原の向こうに、小さな黒い点が三つ、見えた。先のハイクと同じように、緩やかな斜面を下り、草の海を分けて、近づいてくる。
竜が笑った。「考える必要がなくなったな」と。
ハイクに気付いた彼らが、おうい、と大きく手を振った。仕草、声、何もかもを覚えている。この魂が覚えている。ハイクは手を上げ、彼らの声に応じた。
次第に近づいてくる彼らの前髪は、一房だけが、真っ白に染められていた。

ハイクは顔を上げ、彼らの元へと歩いていく。これが、新たな門出の一歩となった。

途方もなく続く緑の丘に立ち、青空の下、ハイクは自由だった。
どこまでも、どこまでも、自由だった。




(常空の丘(後))
【アギラ−たそがれの國−  了】

!イルミナス・アッキピテルさん、ウルグ・グリッツェンさん(@Hello_my_planet)をお借りしました

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