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珈琲はじめました

  ここにきてコーヒーを飲み始めた。だって、今まで全然美味しくなかったから。なんでみんなこんな苦いものを飲むんだと、つい最近まで思っていた。それが不思議なもので、今では毎日当たり前のように飲んでいる。でもだからといって、コーヒーそのものが「美味しい!」と感じる訳ではない。味だけでいったら正直オレンジジュースのほうが美味しい。美味しくないのに飲むってなんだ。コーヒーというものは、なんのために飲むのだろう。

 コーヒーを美味しく飲むためには、コーヒーの味そのもの“のみ”を味わうのでなくて、その“周りの何か”を一緒に味わわなくてはいけない。

 なんだか格好良く書いたけれど、そんな気がする。その“周りの何か”というのは例えば、コーヒーの起源であったり、奴隷や戦争と共に発展した商業としての歴史であったり(歴史を知れば物事の本質が見えてくると思っている)、豆の産地や精製、焙煎の仕方で違ってくる選択であったり、それをどんな道具でどう淹れるかという技術や、そういったことを考えたり行ったりする時間そのものであったり。そういった“周りの何か”を意識してコーヒーを飲むと、なんだか美味しくなってくる。

 たとえば一つの映画を観たとして、「その結末がどうなったか」だけではその映画を味わったことにはならなくて、大事なのはその結末までのああだこうだ、つまり“周りの何か”であって、決して近道しては結末は意味を持たない。

 たとえば孤独を感じることがあったとして、その孤独そのものだけを背負ってしまったら、人は潰れてしまう。人が生きる上での宿命や、ある意味での諦念、その孤独に至るまでの物語を、少し旨味として味わうことができたら(もちろんそれは苦い)、つまり、孤独の“周りの何か”を味わうことができたら、乗り越えられる孤独もあるかもしれない。そして孤独に意義を持たせることこそが、芸術活動の理由の一つなのかもとも思う。

 “周りの何か”は人間の営みにおいて必ず存在する。音楽において、休符があるからメロディが引き立つのであるし、釣りというのはわざわざ早起きをして遠くまで行くからいい。料理をする人の姿は格好が良い。惚れるのは料理にではなくて、その料理を作った人にである。
 “周りの何か”は往往にして不完全だ。日によって、天気によって、気分によって成り立ちが変わってくる。そのために毎回結末が変わってくる。そして、“周りの何か”には正解が無いところがいい。思ったより酸味が強くなったとか、濃いとか薄いとか、そのどれもが間違いではない。
 人生に浮き沈みはあれども、真面目に生きれば間違った人生など無いように、コーヒーにも間違いなどない。人によって好みも違うし、流行だってある。ただ私たちが決められることは、好きか嫌いか、だけである。好きなコーヒーを淹れるために研究をする。自分を深める。コーヒーの“周りの何か”を意識して、味わうのである。そうしていると、不思議と、苦いコーヒーが美味しくなってくる。コーヒーとは、なんだかそういうもののような気がする。少なくとも自分にとっては。

 知ってた? “カルディ”って、大昔にいたエチオピアの山羊使いの名前なんですって。ある日やたらとテンションの高い山羊たちがいて、その山羊たちがある実を食べていることにカルディが気づいたんですって。それで、カルディもその実を食べてみたら、むちゃくちゃテンション上がって山羊たちと踊り狂ったんですって。これがコーヒーの起源の一つと言われてます。
 こういううんちくを垂れながらコーヒーを淹れるのもまた楽しい。でも思うねん、カルディが食べて踊り狂ったというそれ、コーヒーちゃうんちゃう。

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