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「吉祥寺のキャバクラで出会った女の子と桜桃期に行った話」


この作品は、生活に寄り添った物語をとどける文芸誌『文活』2022年3月号に寄稿されています。定期購読マガジンをご購読いただくと、この作品を含め、文活のすべての小説を全文お読みいただけます。



悲しい話は書きたくない。誰かが死んだり、病気になったり、さまよったり。だからこれから話す内容は、楽しい話にしたい。ずっと酔ってて、笑ってる話。幸せそうな話。みんながマスクを付けるちょっと前の話。


ディズニーランドの洗面台に鏡がない理由は、現実逃避をさせるためだ。

夢の国で用を足してちょっと現実的になったところで、さらに鏡に映った自分の顔をまじまじと見たら、ニキビだったり、ふきでものだったり、白髪だったり、目の下のクマだったりが目に入ると、ミッキーなんてかまってられなくなる。夢から覚めて財布の紐も(そもそも財布に紐なんてあったっけ?)固くなる。

キャバクラのトイレで「おしぼり」をくれる理由も、夢の続きを見させるためだ。

用を足しながら人はとんどん現実的になる。いくら使ったっけ? ボーイは自動延長とか言ってたけど、入店したのは21時だから、あれいま何時だ? セット料金は? 税サ込み? 女の子は何杯飲んだっけ? そもそも指名したミサキさんが全然戻って来ないんだけど? 「ミサキちゃんのこと、気になってるんでしょ」と温かいおしぼりを渡される。

フロアに向かう狭い通路。天井からのピンポイントの光が僕らを照らしている。さっきヘルプに入った子で、名前は忘れたけど、寒いトイレにこもって酔いが覚めてからよく見ると、ミサキさんよりもかわいかった。衣装の胸元がめっちゃ開いていて、椎名林檎の初期のPVみたいだった。曲名は思い出せない。

「胸、見過ぎだよ」と笑われる。

「存在感が大きすぎて、目のやり場がほかにないんだよね」と素直に訴える。また笑われて背中を軽く叩かれた。

「サイズが合ってないの。でも、かわいいでしょ?」とミニスカートの裾をちょっとだけ持ち上げる。

「ギブスみたいだね」と僕は思い出して言った。

なにそれ、と笑われる。彼女にくっついて戻る。昔の歌だから今の子は知らないんだろうな。


煙草の煙がフロア全体を包んでいる。照明も白くかすんでいた。霧の森に迷い込んだみたいだった。女の子の高い声。男の歓声。テンポの速いBGM。諸々のアルコールの匂い。かすかな体臭。香水。いろんなものがさっきよりもリアルに感じられた。日曜日の夜なのに人が大勢いて、自分の席に戻るのも一苦労だった。

誰かとぶつかった衝撃があって、「ごめんなさい」と声がつづいた。ミサキさんだった。あ、どうも、お世話になってます、みたいな間抜けな返事をした。彼女も移動中だった。アイスペールを持ったボーイがすぐ脇を通り過ぎていく。彼女は申し訳なさそうに、「すぐ戻るから」と小声で言った。ごゆっくり、と答えて、互いに離れた。


席に戻ると、先輩の山岸さんが「ゲームやるぞ」と提案してきた。顔が真っ赤だ。山岸さんが指名したリナさんも、やろうやろうとはしゃいでいる。

「吉祥寺に住んでる有名人の名前ー!」と山岸さんが叫んだ。昔に流行った山手線ゲーム。急にやりたくなったらしい。「じゃあ、おれから! クドカン!」と彼は声を張り上げた。

「ちょっと待った!」と僕も負けじと大声を出した。「クドカンはもう住んでないんじゃないですか? 有名になったし」と冷静に返す。

「いや、まだいるでしょ。デニーズはなくなったけど、くぐつ草でノートパソコン開いてんの見たよ」

「オッケー。じゃあ、いいですよ。次。リナさん!」と僕は叫んだ。

彼女は手を叩いてから、「本田翼!」とかわいく両手をあげた。二十歳だからできる仕草だ。怖いものなんてない年齢。

山岸さんはいたく感動して、デレッデレの笑みで「いいねえ」と彼女の肩を抱いた。本田翼ももう引っ越しましたよ、と言いそうになってやめた。楽しければいいのだ。理屈なんていらない。

次は僕。手を叩いて、「まことちゃんを描いた人!」と叫んだ。

今度は山岸さんがストップをかけた。「いや、川上。それ、名前じゃないだろ?」
「まことちゃんを描いた人で伝わるんで、オッケーです」
「名前言わないと。そういうゲームなんだから。それだと逆にクイズじゃん」
「ど忘れしました」
「シマシマの服を着てる人!」とリナさんが助け舟をだしてくれた。

「いやー、リナちゃん、それもクイズだなー」と山岸さんは目を細めて笑った。彼がグラスに手を伸ばすと、リナさんがさりげなく水滴をぬぐった。

「もう、名前はわかったようなものなんで、次いきましょう」僕はおしぼりを渡してくれた彼女を見る。「えーっと?」さっき名刺をもらったばかりなのに、やっぱり名前が思い出せない。

「ノンです!」と彼女は笑ってから、「太宰治!」と叫んだ。


一瞬だけ、僕の動きが止まった。山岸さんは水割りを噴き出して、「ノンちゃん!」と笑った。「もうだいぶ前に住んでないから! それに、吉祥寺じゃなくて、三鷹だから!」

「は?」と僕は山岸さんに楯突いた。「それ言うなら、さっきの本田翼だって、三鷹ですよ?」

「本田翼は、吉祥寺だ」
「住んでなくてもいいなら、小栗旬もオッケーってことですか?」
「小栗旬は、吉祥寺だから、全然オッケーだよ」

なにをムキになってるのか、もはやわからなかった。そもそもなんの話だっけ。ボーイが来て、「ノンさん、お願いします」と声をかけた。

「呼ばれたので、行きますね。ありがとうございました」と彼女がグラスを傾けて、席を立った。その腕を引っ張って、となりに座らせる。僕はボーイに向かって「場内」と宣言した。


けっきょくミサキさんはラストまで戻ってこなかった。さっきトイレに立ったら、遠くの席でフルーツの盛り合わせを前にして楽しそうにしていた。ノンちゃんがまたおしぼりを渡してくれる。ふたりで席に戻ると、入れ違いで山岸さんが立った。足元があやしい。リナさんが後に続いていく。

水割りのグラスを持ち上げて、すぐに離した。もうアルコールは受けつけなかった。ノンちゃんが水を入れてくれる。「いつも、ふたりとも、こんな無茶な飲み方するの?」と言った。

「何杯飲んでも、酔わないんだよね」と答えた。

「いや、十分酔ってるよ」と笑った。

「ノンちゃん」とあらたまって名前を呼んだ。

「はい」

「明日、桜桃忌だけど、いっしょに行く?」

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