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【奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール】(2017) 映画評〜女性への不誠実さと大根監督の徹夜の美学

※この文章は2017年に書いたものです。あと原作は未読です。


<あらすじ>

“力まないカッコいい大人”=奥田民生、に憧れる雑誌編集者が、男を狂わすファッションプレスの女に一目ぼれ。恋の喜びや絶望を味わい、もがき苦しむ抱腹絶倒のラブコメディ。奥田民生を崇拝する33歳、コーロキ。おしゃれライフスタイル雑誌編集部に異動になった彼は、慣れない高度な会話に四苦八苦しながらも次第におしゃれピープルに馴染み奥田民生みたいな編集者になると決意する。そんな時、仕事で出会ったファッションプレスの美女・天海あかりにひとめぼれ。その出会いがコーロキにとって地獄の始まりとなるのだった。

【主演2人の顔芸で何とか成立した映画】

 まず結論からいえばそれなりには面白かったです。何といっても今をきらめく一流俳優たちが心底楽しみながらバカやってるのを見てるだけで、あー楽しそうだなーと思える。(逆にその内輪な感じが怒りに油注いだって人もいるかと思いますが)

 「100円の恋」でロバート・デニーロばりに超ストイックな体重増減でボクサーを演じた安藤サクラが、本作では数十匹のネコと暮らす海外サッカーオタの干物女コラムニストになる。

「こんなやついるわけないやん!」っていう超過剰な所作と台詞まわしに、でもどこか「でも天才ってこんな感じなのかもね」と感じさせるあたりがさすがです。

それからチョイ役だけどリリー・フランキーで爆笑しました。軸がブレる笑いではあるんですが、決して嫌いじゃない。あの誘い笑いは反則です。

 しかし何といっても今作で最もイキイキしているのは主役の妻夫木くん。今作のコーロキというキャラは30越えてんのに童貞をこじらせたようなダメ男で、それを天下の妻夫木聡がやるのってどうなの?と初めは思いましたが、ソファでムラムラして股間を手で押さえつけたり、独りベッドで腰降ったりするところの振り切り具合は爆笑でした。

 そして何より顔芸がスゴい!はっきりと漫画的というか、顔面の筋肉を可動域限界まで使って感情を爆発させる妻夫木くんがとてつもなく愛らしい。もはや犬ですね笑。今作では水原希子演じるあかりが猫に例えられます。気まぐれでつかみ所がなく次々と飼い主を変えていくあかりに対し、コーロキは完全に彼女の犬なのです。あかりを怒らせてしまうと分かりやすくガッカリして、仲直りすると大喜びする。

その落差も目一杯デフォルメされていて、ともすればもの凄くバカっぽいんだけど彼の人たらし的な懐っこさが憎いくらいグッとくる。この妻夫木くんの犬に徹した顔芸パワーで何とかもったなと感じました。

 もちろん水原希子演じるあかりの体当たりな演技も良かった。男をたぶらかしていくという役の上で、彼女はスレンダー過ぎて妖艶さが足りないかなとも思いましたが、コーロキの部屋で下着姿になるシーンでは見事な美乳を披露しています。

余談ですが、この流れはまんま「(500)日のサマー」にあって。しかも「モテキ」の時にオマージュしてたミュージカルパートの直前です。大根監督どんだけサマー好きなんだよと思うと同時に、サマー好きならなぜこんなことになるの?という問題の根深さを再認識したりしました。その辺は後述します。

 水原希子さんは顔の造形がかなり個性的です。吊り上がった目と横に大きく広がる口がまさしく悪魔的で不気味なんですが、そこにチャーミングさを加えることで、上手く中和されていたずらっぽくなる。この非日常性と親しみやすさが共存した顔立ちというのが凄く活きていて、改めて主演2人の顔面力が功を奏した作品だなと思います。

【ただヤりたいだけーそれって恋愛なのか?】

 一方でこの作品にはとても大切なエッセンスが欠けているとも思いました。それはあかりの内面の描き込みです。映画のテーマはこれまでに何度も多くの作家によって作られてきたもの。一言で言えば、「ダメ男の反省物語」です。その最たるものとしてはウディ・アレン監督の「アニー・ホール」とか前述したマーク・ウェブ監督の「(500)日のサマー」など。

自分のエゴイズムのせいで傷つけた女性との思い出を洗いざらいブチまけることで、戒めにする私小説的な映画群です。

本作「奥田民生~」は加えてそこに「めまい」とか「ゴーン・ガール」に代表される、男が女を自分の理想のカタチに無理やり押し込めている問題にも触れています。そもそも「奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール」というタイトル自体がレッテルとかステレオタイプを揶揄したものになっていますね。

 本作を観るとあかりと男たちの関係は恋愛ではなくて完全に「契約」です。というかもうこれはハッキリと風俗だと思いました。あかりとセックスをする時に、コーロキもヨシズミ(新井浩文)も編集長(松尾スズキ)もみんな彼女に責められて喘ぎ声を出します。

彼女が優位な立場にあることを示すギャグですが、もう一つの意味としては彼女とのセックスが愛ではなく「プレイ」だということを示しているのではないかと思います。

男たちは結局あかりを「ヤリたい対象」としてしか見ていないのです。コーロキが彼女との体験を回想するのはいつも路チューばかりだし、ヨシズミは露骨に性目的で京都まで行きます。

 あかりはそんな男たちの欲望のためにゲームに乗ってあげるのです。男たちを悦ばせるための言葉や仕草、性行為を振りまきます。彼女にとってそれは契約であり、割り切りです。ところが互いがその前提を理解している風俗とかセフレと違ってコーロキたちはあかりの本心に気づいていない。

クライマックスは彼女がそれを明らかにする展開になっています。あかりは自らをドラえもんのスネ夫に重ねます。ズルいけど、なんだかんだ上手く立ち回って人生を一番楽しんでいるんだと。

 しかし、僕はなんかこのあたりから「それってどうなの?」という気持ちになってきました。彼女はそう卑下しているけど、そもそもあかりが周りの顔色伺って相手の男の望み通りの「イイ女」を演じるようになってしまった根本の問題は置いてけぼりです。本当の自分を理解してくれる男に出会いたいのか、もうすでに男そのものに幻滅しているのかよく分からない。

 映画の結末では数年後にあかりが中年の白人男性の恋人と仲良く歩いているのをコーロキが目撃します。これは編集長がパリで当時の彼女を目撃した時の状況と重ねていますが、これもハッキリいって全然上手くない!

なぜなら場所が日本だからです。「ここではないどこか」を切望して海外に行くとか、それくらいの行動力のあるキャラクターのはずなのにね。あかりがなぜ男に深入りしないのかを絶対に描くべきだったと思います。コーロキとあかりが京都にデートに行こうと話す場面。

実はあかりにとって、あれがはじめて男を信じて見ようと思う瞬間だったのではないでしょうか。体目的ばかりの今までの男とコーロキは違うと、彼を信用し始めていた時なのではないでしょうか。

 でもコーロキは自分の仕事に精一杯で気がつかない。あそこも携帯を職場に置き忘れているのに全然気がつかないというのはかなりムリあるけど笑。でもそれはいいです。とにかく、自分のことでいっぱいになってしまうから、彼女の気持ちを推し量れない。そのことをコーロキが反省する描写がないんですよ!これはかなり問題。

クライマックスでヨシズミと編集長の回想シーンが出るなら、あかりの回想シーンもないとダメでしょ。最後にコーロキは名のある編集者として成功するけどもそれはプラスチックみたいな作り物で、かつての志が高かった自分を思い出して泣くわけです。

でも、ここも結局は自己愛でしかない。だからなんで泣いてるのかイマイチ感情移入できないんですよ。

 映画全体の構造的な問題として、

①そもそもきちんとした恋愛関係の描写がない

②仕事と恋愛という別次元の問題を無理やりつなげている

ということがあると思います。

 ①はずーっと言ってきたようにコーロキとあかりの関係が恋愛ではなく契約なので、そのこと自体にコーロキが気がつかない限り彼が成長したとはいえないという問題がある。そして本作ではそれをクリアできていません。

【大根監督の作家性ー徹夜は美学だ!】

 ②は大根監督作品全てに共通することです。彼は毎回自分の仕事哲学を映画の主人公に託してしまう癖があるのです。特にここまでの全作品に共通しているのが「徹夜」の描写です。大根メソッドでは徹夜仕事をすることで、主人公は一つ上のステップに上がっていくのです。

『モテキ』では長澤まさみにフラれた森山未來が泣きながら徹夜で、その彼氏を褒める記事を書きます。(ただしフラれたのは完全に自業自得)

『SCOOP!』も全く同じで、二階堂ふみは仕事のパートナーでもあり恋人?でもあった福山が殉職したのに、泣きながら職場に帰り徹夜で原稿をあげます。「それがジャーナリズム」だとでも言わんばかりに。

違うわ!

そもそも『SCOOP!』は芸能ゴシップとジャーナリズムをごっちゃにして論じているため、非常に鼻持ちならない映画なんですがそれを話すと長くなるので割愛します。

「バクマン。」に至っては、連日の徹夜作業がたたって主人公は体を壊してしまう。それでも、それは通過儀礼として必要なことだったとして悪いものとして描かないのです。

大根監督自身がテレビマン時代に過酷な労働を耐え抜いてきたからこそ今の自分があると思っているのは大いに結構ですが、それが世の中全てに当てはまる普遍的な仕事論ではない、これはハッキリ言わせてください。

 それに今作でいえば、コーロキがデートと原稿の締め切りをバッティングさせてしまったのは単なる不注意が原因。勝手な口約束をしてしまったからですよね。(こんなやつが後に優秀な人間になるというのもムリがあるが)

「仕事と私、どっちが大事なの?」というこのシチュエーションは、マッチポンプ的に彼が引き起こしたもので、それを「出版業界の宿命」として描くのはいくらなんでも論理のすり替えだと思ってしまいました。

 あと気になったところでいえば、リリー・フランキー演じるライターの処遇。あれは余りにも酷いのでは?

彼がネットを炎上させたことは勿論間違っています。しかし、モデルプレス側には菓子折りもって詫びにいくのに、リリーさんのとこには何のアフターケアもしないって、それこそ仕事論としてあるまじき行為だと僕は感じたのですが… 

【女性に対していささか不誠実な映画】

 あかりというキャラクターの内面を見せない方が、彼女のミステリアスさとか小悪魔っぽさは強調できるため、娯楽作品としてはより楽しめる。それは間違いないと思います。ただし「小悪魔系」っていう言葉さえ、所詮は男の幻想に過ぎない(というか非常に失礼な言葉)わけですよね。僕は予告だけ観た段階で、最後にそういう男の間違った考えをしっかりと成敗する話になっているのかと思いました。

ところが。コーロキ達はバツを受けるけど、自分たちの何が間違っていたのか最後まで理解せずに終わっている。これじゃ男性の女性への無理解を肯定しているのと同じじゃないか、大いに違和感を抱きました。特に水原希子さんはSNSでの発信などを見る限り、こういう不誠実さを許せないタイプの人なのではないかと思うのですが、心からあのエンディングに納得しているのでしょうか?


(↑この予告も本当に失礼極まりない)

 とはいえ、こうした議論を交わす上でもぜひデートムービーとして鑑賞すべきではないかという気もします。特にあなたが女性で、彼氏がこの映画を観終わって「水原希子がエロかった」程度の感想しか出てこないとすれば、その彼との付き合い方を見直すいい材料になるかもしれませんから。


追記:その後水原希子さんは、過去に広告のモデルをした時にヌードを強要されたことを告白。撮影当日に関係のない社員たちが現場を見学に訪れ、不快な気持ちになったことを語りました。


女性が闘うーそれは素晴らしいことだと思いますが、男の僕が思うのは「勘違い」をしている僕たち男がその間違いに気づく方が、はるかにスピード感を持ってこうした問題を解決出来るんじゃないかってことです。

今作は#Me Tooムーブメント直前に封切られた映画であり、2017年秋においてもまだここまでしか踏み込めなかったことを記録した、そんな映画です。



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