『愛がなんだ』映画評後編(復習編)
ここからは映画「愛がなんだ」を鑑賞した方用にネタバレ有りで書いていきます。前回の最後に「なぜ好きな人に本音を言えないのか」というテーマを提示しました。
主人公テルコと守はもちろん、葉子とナカハラ(若葉竜也)も相手に「本当はこうして欲しい」「こうしないで欲しい」を言えずに、なぁなぁな関係を続けています。そしてアンジャッシュのコントみたいに勝手に相手の感情を忖度して、お互いの想いはどんどんすれ違います。中盤から登場するすみれ(江口のりこ)も、一見ガサツで自分の言いたいことをズバズバ言うように見えて、守のことを完全に切ろうとはしません。余談ですが、すみれがカルパッチョ食べた時の「泣くよ、泣くよ」は爆笑でした。
<理由① マウンティング>
本作では「甘やかした相手はつけあがる」というのも大事な教訓の1つです。そうやって力関係が出来てしまうと、ナカハラがコンビニの前で吐露したように関係を保つことがどんどんツラくなってしまう。例えばテルコは守にマウントを取られているけど、守はすみれには逆らえません。マウントを取られている側は、「相手に嫌われたくない」という思いから本音を言えないのです。一方でマウントを取ってる側からしたら、相手を自分の思い通りにできる現状を維持したいので言わないのです。
<理由②白黒つけない方が傷つけないし傷つかない>
ま、これが8割くらいかなと思います。そもそも「なぁなぁの関係」を初めてしまった、あるいは続けていることに対して後ろめたさがあるわけですから、「このまま見て見ぬ振りをしていた方がお互い幸せだよね」っていう言い訳です。
「大人はな、いろいろあるんだよ」的なね。
しかしテルコの妄想に出てくる幼少期のテルコはこう言い放ちます。
「大人は考えすぎなのよ」と
学校の教室でテルコが子ども時代の自分と会話する夢シーケンスは、明らかにウディ・アレンの「アニー・ホール」ですね。なぜ「アニー・ホール」を引用しているかの話は後ほど。
<最後まで本音を言わないテルコ>
理由①・②からテルコは守に本心を打ち明けられません。いや、厳密に言えば守が酔っ払って家に来た時に勢いで二人は関係を持ちそうになります。これはクラブですみれに自尊心を傷つけられた守が、自分の心を満たしたいというそれだけの理由でテルコに「ヤラセて」と言うのですが、
本当にどうしようもないクズですね
対してテルコは「するなら私のこと、ちゃんとそういう関係として見てくれるよね」と遠回しに言いますが、守は「じゃあいい」と寝ます。
序盤で守の寝顔を見ていた時、テルコはニターっと幸せな笑みを浮かべていたのに、ここでは心底悲しそうな顔をします。こうした対比の演出も隅々まで行き届いていて、後半はテルコとナカハラが鏡像関係になっていくのです。
ナカハラはテルコに葉子との関係を断つことを打ち明けます。それは自分が葉子を甘やかすことは、葉子の為にならないのではないか。葉子への想いは、独占欲ではなく彼女を幸せにしたいという慈愛で、だからこの関係は間違っていると。
それに対してテルコは怒ります。
「愛がなんだってんだ!」
テルコにとってナカハラは他人には理解されないイビツな感情を共有できる「もう一人の自分」なのに、そのナカハラは「世間一般の正論」に降伏してしまうからです。
んなこたぁ分かってるんだって話なんですよ、守は自分を都合よく利用してるようなクズで、好きになる要素なんか1個もない男。この恋愛に成長なんてなく、堕落しかない、
それの何がいけないの?
好きなんだからしょうがねぇじゃん
テルコは開き直ろうとしますが、その矢先についに守から関係解消を切り出されてしまいます。冒頭では守が風邪を引き、彼のためにテルコがうどんを食べさせますが今度はその関係が逆転しています。
テルコはここで「別にあなたのことなんて好きじゃなかった」と嘘をつきます。
ここで僕は泣きました(T T)
守を傷つけないためであり、自分の心を押し殺すためでもあり、なんて優しい子なんだって。結局テルコは空想の中の即興ラップ以外は、自分の感情を吐露できずにいるのです。
冷静に考えたら、テルコは仕事も辞めた上に再就職をブッチするなど、社会の風上にもおけないショーモない女ですが、こんな切ない嘘を見せられたら
まだこっから人生やり直せるって、頑張れ!と応援したくもなりますわな
ところが!ところが!!
ここで終わったら綺麗な着地なのに「愛がなんだ」は、ここで「世間一般の正論」めいた優等生的な結末はつけないのです。
<普通の恋愛映画ならを描くナカハラと葉子の再会>
結末が結末だけに、ナカハラと葉子のパートは、「正しい恋愛」至上主義のうるさ方へのエクスキューズみたいな形で挟み込まれます。
つまり他人の恋愛をジャッジして批評してきた葉子も、間違いなくナカハラを都合のいい男にしていたわけで、そのことをテルコに指摘されたことで、彼に会いにいきます。恐らく葉子はナカハラの撮っていた写真をそこで初めて見ます。自分本位だった彼女は、ようやく彼と向き合います。
ナカハラも自分が葉子に嫌われないようにと、言いなりになってたことが間違いだと気づくことが出来ました。恐らく、この2人はやり直すことが出来るんじゃないか。あるいはお互いに次の相手には、もっとその人を大切にする事ができるじゃないか。そんなポジティブな展望を感じさせます。
「アニー・ホール」が引用されたのは、相手より自分自身を大切にしたせいで、恋愛をダメにした男が反省する物語だからです。ナカハラと葉子は自分の失敗に気がつくことができました。
しかしテルコは、守への思いを
なんと全然断ち切っていなかった!
しかも、表面的には「ただの友達」のフリをして、守の友達に気のある素ぶりを見せます。友達として関係を切らさないようにするために。
「そこまでしてでも守が好きなの?」と鏡に映る子ども時代のテルコがたずねます。これは観客を代弁していますね。
テルコはナカハラに、自分は守本人になりたい、それが無理なら親子や兄弟、従兄弟でもいいんだと言います。あの、本当にごめんなさい。ちょっとその気持ちは理解できないかな・・・
<ラストのゾウは何を意味するのか>
映画の一番最後はテルコがゾウの飼育員になった姿を妄想しているところで終わります。これは動物園で、守が33歳になったらゾウの飼育員にでもなろうかなと適当こいた時の話に対応しています。なぜテルコはゾウの飼育員をしているのか。このカットはどういう意味なのか。
前述したように本作は食事が非常に大きな意味を持っています。このカットでもテルコがゾウにバナナを食べさせています。ゾウを飼育、コントロールしているわけです。じゃあゾウは何の象徴なのか?
それは守への気持ちです(ってかそれ以外ないけど)
つまりテルコは妄想の中で実際に守になってしまい、一方で守への想いをコントロールしようとしている、そのアンビバレントな気持ちを共存させて生きていくという決意を示しています。
自分が守と結ばれることはない、でも彼を手放したくもない。その矛盾の中で暮らしていくのです。これってフツーの感覚だと「いや、ダメでしょソレ」って批判したくなりますよね?「時間の無駄だし次行きなよ」って。
<恋愛の形は人それぞれ 否定も肯定もしない>
だけど「愛がなんだ」は、
「別にそれ私の自由でしょ?」
「あなたに何か迷惑かけてますか?」
というテルコサイドの言い分もきっちりすくっています。故にありきたりで倫理的な着地はしない。それこそが本作の一番素晴らしい所だと思います。
現実で人間はそんな簡単に成長しないし、変わることは出来ません。それにテルコみたいな人が不幸せかっていうと、「いや勝手に不幸だって決めつけないでくれる?」ってことですよ。自分で選択して生きてんだから、他人にどうこう言われたくないでしょ。
テルコは会社を辞めた後に、銭湯の清掃の仕事を始めます。同僚の中年女性が仕事終わりにベビーカゴをつけたママチャリを漕いでいる姿を見つめて、テルコは切ない表情を浮かべます。「ああ、仕事して子ども迎えに行って・・・こういう形の幸せがあるんだな」と。守の洗濯物干して勝手に結婚を妄想するぐらいですからね。
ところが、実は清掃のオバさんも離婚してシングルマザーだということが分かります。でも彼女はすごく幸せで、前の旦那のことなんて顔も思い出せないとテルコに話すのです。ここでも好きな人と出会って・結婚して・子どもを産んで育てて・老後はまた2人で暮らす…みたいな「絵に描いた幸せ」なんて普遍的じゃないってことが強調されます。もっと自由で良いんだよって、本当になんて優しい映画なんでしょう!
もう一度話をラストカットに戻すと、あれはテルコの妄想なので守と一緒にゾウに餌をあげてもいいはずです。しかし、そこには守の姿はなくテルコが独りでゾウを世話しています。したがって、テルコがゾウを手なづける(=守への熱が冷める)可能性も示唆されていると思います。だから守への気持ちを吹っ切るまで、彼を監視し続けるのも、それもまた自由なんです。
守の意思とか一切無視してますけど笑
ということで長くなりましたが「愛がなんだ」の復習編でした。要するに一言で言えば「人それぞれ」なんです。
もうただそれだけの映画ですよ
ただ今の時代だからこそ響くものがいっぱい散りばめてあるし、細部まで映像演出が行き届いていて、何より俳優の演技が素晴らしいです。岸井ゆきのは日本のエマ・ストーンになってほしいですね笑。次はあのファニーフェイスを活かした、コメディとかホラーで観てみたいなと思いました。
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