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『ブレードランナー』(1982年)の何が凄いのか(ネタバレなし)


※この文章は2017年の『ブレードランナー2049』の公開直前に書いたものです。ロイ・バッティを演じた名優ルトガー・ハウアーの死去でこんなこと書いてたな〜と思い出し、備忘録として掲載します。


【①ブレードランナーの原体験】
 


「ブレードランナー」との出会いは小学校6年生の時。家のDVDで観た「ディレクターズ・カット(最終版)」だった。当時の僕は「スター・ウォーズ少年」で、この時には「エピソード2 クローンの攻撃」が公開されていたし、オリジナル3部作はVHSで何度も何度も見返していた。この頃はギリギリVHSとDVDが混在していたと記憶している。

そんな時代で、ある日父親が買ってきたDVDが「インディ・ジョーンズ」シリーズと、この「ブレードランナー」だった。「インディ・ジョーンズ」は僕の誕生日プレゼントとして買ってきたもので、僕は「スター・ウォーズ」同様に冒険活劇に夢中になった。


 一方で「ブレードランナー」は裏ジャケットのロイ・バッティ(ルトガー・ハウアー)の鬼気迫る表情が怖くて、中々観る気がおきなかった。しかし父が僕に何度も

「人生で観た中で1番の映画はコレだよ」

と言っていたことや、ハン・ソロとインディ・ジョーンズという大好きなキャラクターを演じたハリソン・フォードが主演だということもあって、思い切ってディスクをデッキに投入した。


観終わった時の印象は「何コレ?」だったことをよく覚えている。「SF映画の金字塔」というキャッチコピーに対して、イメージしていたストーリーと実際の内容があまりにも違っていた。ただ、映像はとても鮮烈で不思議と胸に残る作品だなと思った。


 中学・高校に入ると、1年に数本しか映画を観ない人間になったので「ブレードランナー」のことなんてすっかり忘れていたが、大学生になり映画館に通い出すようになるとどうやら「ブレードランナー」が映画史に残る傑作らしいということが分かってきた。(それまでは、家にたまたま置いてあった父が好きなマニアック映画程度にしか思っていなかった)


 そして改めて見返すと前より面白くなっていた笑。さらに映画が好きになり、のめり込むように映画のことばかり考えるようになった時期にもう一度「ブレードランナー」を観た。もはや、面白いとかではない、凄い映画だと感じるようになっていた。


【②カルト映画としてのブレードランナー】


 今思えば、小学生の時の僕が「ブレードランナー」を楽しめなかった理由は明白だ。まず物語が難しいことにある。哲学的な思考を必要とする上レプリカント達が何に反抗し何を求めているかを理解できなかったのだ。そしてそれ以上に、ハリソン・フォード演じる主人公のデッカードが分かりやすいヒーローではないということが大きい。


 「スター・ウォーズ」や「インディ・ジョーンズ」はジョン・ウィリアムズの壮大な音楽にのせて陽気で荒唐無稽なアドベンチャーが繰り広げられる、楽しい楽しい映画だ。ところが「ブレードランナー」は全く違う。画面はとにかく暗くて、夜の陰鬱な街に常に雨が降っている。そして主人公のデッカードが劇中で倒す敵は2人とも女性だ。丸腰の彼女たちに容赦なく銃を打ち込むのは、正直いって居心地が悪かった。


 主人公が善人ではない、主人公の自発的な行動によって物語的なカタルシスが得られるわけではない作品というのは、それだけで受け取り手側のリテラシーが要求される。そしてそういう映画は広く大衆的に受け入れられることは少ないだろう。けれども、だからこそ「これは俺の映画なんだ!」と思う人間も生み出すのだろう。僕の父のように。

そうやって「ブレードランナー」はカルト映画として、あらゆる世界のあらゆる世代の人々の心を、今もなお掴み続けている。


【③虚構が現実を超えて現実になる】


 では実際に、「ブレードランナー」という映画の何がそんなに凄いのか。この映画はあまりにも重層的で、論じる切り口も無数にあるため単純に説明することは不可能だが、僕がとくに注目したいのはテーマの1つである「フィクションが現実を超える」という点だ。

人造人間のレプリカントは、限りなく人間に近い贋作(まがい物)だ。ところが、次第に彼らは感情を持つようになる。限りある寿命への恐怖、怒り、悲しみ…反逆者のリーダーであるロイは、それらをとてもエモーショナルに表現する。対照的に人間のデッカードは、無表情で感情の起伏がない。常にシニカルなモノローグで、世界に対して冷めていることがよく分かる。「ブレードランナー」の世界では偽物のレプリカントの方が本物の人間よりも遥かに人間的だ。



 そして映画「ブレードランナー」は現実の世界にも波及した。ビルの壁一面に映る「強力わかもと」のCM。これは渋谷のQ-FRONT(TSUTAYAが入っているビル)だし、街中を企業の広告が覆う街並や、高層ビルと屋台街が共存するカオスな状態は、新宿のようだ。「ブレードランナー」は、2019年のL.A.ではなく、2017年現在の東京そのものになってしまった。


 たまに東京に帰るたびに思う、この景観は悪魔的だと。例えば、渋谷はいつまでたっても工事をしている。バベルの塔でも作るつもりなのだろうか?新宿の歌舞伎町にはゴジラの仰々しいモニュメントが出来て、外国人観光客がひっきりなしにスマホのシャッターを切っている。
「先進的なもの」「新しいもの」「オシャレなもの」を作ろうとする限り、街は常に美しくはならない。そのぬかるみにはまっているかのようだ。

「ブレードランナー」を観る度に、痛烈な皮肉に思えてならないのである。
「フィクションが現実を超える」というのは、もはや今の時代当たり前になってしまっているかもしれない。典型的な例が「インスタ映え」だ。写真とは本来、経験や体験を記録するものであり付随品でしかない。ところがその写真を「加工」「修正」「編集」し歪曲することで自己満足を得たり、他者からの承認欲求を満たすことこそが目的化しているのが現代人なのだ。


 現実は思っていたよりもずっと凡庸で、退屈で、くだらないもの。ならたとえ虚構の世界でも映画や小説や少女マンガやディズニーランドに逃避することの何がいけないのか。こうした考え自体は「ブレードランナー」以前からあっただろう。しかし偽物の価値観の方に現実が引っ張られるという現象そのものを描いたことこそが、この映画が傑作と言われる所以だと僕は思う。


 例えば「スター・ウォーズ」とか「マッド・マックス」とか、同時代にもカルト的な人気を博した映画はたくさん生まれた。コスプレしたり車を改造して、その世界観に浸るオタクも生まれた。けどそれはあくまで一部であり、「ブレードランナー」はこの映画を観ていない人の生活にすら波及する影響を及ぼしていた。シュールであり、リアルなのだ。


【④ブレードランナーを繰り返すリドリー・スコット】
 

「ブレードランナー」の監督のリドリー・スコット。僕はこの監督の作品がとにかく大好きだ。「エイリアン」「グラディエーター」「テルマ&ルイーズ」…一見すると様々なジャンルを撮る職人気質の監督だが、実際のところ強烈な作家性を持っていて、その根幹にあるのが「ブレードランナー」だと思う。実際「プロメテウス」と今年公開された「エイリアン:コヴェナント」は「エイリアン」シリーズの前日譚のはずだが、内容はほとんど「ブレードランナー」のやり直しになっている。

また「テルマ&ルイーズ」も、主役と悪役を入れ替えた「ブレードランナー」といっていいだろう。デッカードをハーヴェイ・カイテルに、ロイをスーザン・サランドンに置き換えれば、きちんと「社会に反抗し自由を求めて闘う」話になっている。


 「エイリアン:コヴェナント」は、「ブレードランナー」のデッカード独白の台詞が再び使われているー「我々はどこから来て、どこに向かうのか」
 これはフランスの画家ゴーギャンの『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』という絵画からの引用。

 人間は何のために生きているのかという実存的な問いかけだ。文学や、音楽など芸術はまさにこの永遠のテーマを解き明かすためにあるといっても過言ではない。そして、リドリー・スコット監督はほとんど毎回その真実をとてもシニカルなものとして描く。それが彼の作家性だ。


 「ブレードランナー」ではラストでようやくデッカードがある決断をする。そしておそらくその決断はすでに手遅れか、あるいは成就することのないものかもしれない。しかし、幸せか不幸せか、成功か失敗かなんてことは他人が決めるものではないのだ。って、これまんま「テルマ&ルイーズ」じゃん笑。


 それからディレクターズ・カット版では、実はデッカードが※※※※※※(ネタバレになるので伏せます)なのではないかと受け取れるようなシーンが追加されている。しかし新作が出来るということは?とか、そのへんが気になるわけだ。さて一体どうなっているのか?2017年で最も楽しみにしていた映画がついに公開されようとしている。


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