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チャットモンチーの歌詞の素晴らしさを改めて見直してみません? ①シャングリラ 編

 去年解散したチャットモンチーの偉大さについて考えていた。
ガールズバンドを当たり前にしたとか、
スリーピースバンドなのに音の厚みがあるとか、
いろいろあるだろうけどその辺のことはよく分からない。
ちょうど僕が中学・高校の時にブレイクしたバンドだけど、
当時はこじらせて洋楽しか聴いてなかったため、邦ロックとかダサいと思っていた。その考えこそがダサいのだが、とにかくチャットモンチーをちゃんと聴いたのは大学生になってから。
 雷に打たれたように衝撃を受けたのは、その歌詞だった。他のガールズバンドとチャットモンチーが決定的に違うのは、安易な恋愛ソングになっていないところ。甘ったるくて、くっだらねー恋愛ごっこを助長する、青春賛歌に一切走らなかった。

<風吹けば恋から透けてみえる自意識>


 え、そうか?と思う人は、堀北真希さんのシーブリーズのCMソング「風吹けば恋」のを連想したかもしれない。だけど、この曲もよく歌詞を読むとそのテーマが単純な恋愛だけではないことが分かる。


 作詞は主に元ドラムの高橋久美子さんがすることが多いが、ベースの福岡晃子さん、そしてギター・ボーカルの橋本絵莉子さんも素晴らしい詞を書いている。彼女たちの詞は、どれも「自意識」にまつわるものばかりで、例えば「風吹けば恋」の冒頭はこんな言葉で始まる。

はっきり言って努力は嫌いさ
はっきり言って人は人だね

 めっちゃハスに構えている。冷めている、なんだったら周りの人を見下している。思春期特有の自意識を持った主人公だ。ところが彼女は、

だけどなぜ窓ガラスに映る姿気にしてるんだ?
だけどなぜ意地になって移る流行り気にしてるんだ?

 と悩んでいる。この気持ちはマジで良く分かる。
どう見られているか、とか周りのくだらない一喜一憂なんて気にしない!
…とは言い切れるほどには、確固たる自分が出来ていない状態。
そんな「私」が、恋をすることで自分が別人のようになることに驚き
やがてそれを受け入れる。

だけどこれが本当みたい新しい私がこんにちは
だけどこれが本当みたい新しい私よこんにちは
走り出した足が止まらない
行け!行け!あの人の隣まで
誰にも抜かれたくないんだ
風!風!導いておくれよ

 この曲の中では「あの人」がどんな人で、
彼のどんな言葉や行動にときめいたかが一切描かれない。
それはラブソングと決定的に違う。そうではなく、
彼に恋することによって自分が変化したこと、そしてその変化をポジティブなものとして受け入れることが出来た自分を讃える歌なのだ。
もっとも曲調が軽やかでアップテンポなので、一見すると爽やか青春恋愛ソングに仕上がっているように聴こえるんだけど。
 このようにチャットモンチーの曲の詞は時に抽象的で難解なのだが、
その根底には「自我」があって、もしかしたらだからこそ幅広い人たちに届く音楽になったのかもしれない。

<シャングリラの「君」は誰?>


 彼女たちの代表曲といえば、やはり「シャングリラ」だろう。
この曲の歌詞は非常に難解で、そもそもまずシャングリラってなんやねんって感じ。電気グルーヴにも「Shangri-la」という曲があるけど、
これは英作家ジェームズ・ヒルトンの『失われた地平線』という小説の
理想郷(ユートピア)の名称だそう。



この曲を読み解くポイントはサビでなぜか変拍子が入ることだ。

シャングリラ幸せだって叫んでくれよ
時には僕の胸で泣いてくれよ(↓)

 この矢印の部分に1拍入ることで、ここだけが5/4拍子になっている。
で、また「シャングリラ~」と続いていくので不思議な繰り返し感を覚えないだろうか。
 この曲の歌詞全体をみると、ある女の子が河川敷を歩きながら
あれこれ思いを巡らせている物語になっている。
彼女の考えは常に頭の中をグルグルと回っていて、
そのグルグル感を表現するための変拍子になっているように考えられる。
裏を返せば、サビ部分は彼女の脳内世界の情景について歌われているのだ。

まず1番の歌詞を見ると

携帯電話を川に落としたよ
笹舟のように流れてったよ あああ

 いきなりファンタジーである。ちなみにこの時はまだスマホではなく2つ折りの携帯だから、開いた状態が笹舟のようだと形容してるのだろう。にしても携帯が「桃太郎」の桃のように川をゆるやかに流れることはない。フツーに川底に沈むだけだ。だからこの表現はとても文学的だし、彼女に世界がそう見えてるなら、良い意味で感性があり悪い意味でこじらせている。

君を想うと今日も眠れない
僕らどこへ向かおうか? あああ

 君とは誰?僕らとは誰?ここはわざと曖昧にしている。ここで矛盾しているように感じるのが、サビで「夢の中でさえ~」と言ってるのに、「君を想うと今日も眠れない」ってなぜ?という点。

 これは僕はよくやってしまうのだが、眠る前にあれこれと頭の中で妄想することだと思う。どんな夢を見るか自分ではコントロール出来ないけど、その眠る前に「あんなこといいな、できたらいいな」って考えてしまうのだ。まぁ「みんなみんなみんな叶えてくれる」ってことはないけど。
 とするとシャングリラという言葉は女の子の願望を満たす「おまじない」のように聞こえる。では君とは一体誰なのか?その点については最後に説明します。ってことで2番のサビへ

シャングリラ幸せだって叫んでくれよ
意地っ張りな君の泣き顔見せてくれよ
シャングリラまっすぐな道で転んだとしても
君の手を引っ張って離さない大丈夫さ

「僕らどこへ向かおうか?」と言っているにも関わらず
「まっすぐな道で転んだとしても」という表現。
道に迷っているわけでなく、道は一本道のようだ。
おそらくこの歌は川沿いを歩きながら女の子が妄想していることが歌になっているので、当然道は真っ直ぐなのだろう。


つまり迷路で迷子になっているのではなく、
その道の先に何があるか分からないことで「どこまで向かおうか?」と不安になっている。しかし彼女は道を歩いてると、突然悟りを開くのだ。

あああ 気がつけばあんなちっぽけな物でつながってたんだ
あああ 手ぶらになって歩いてみりゃ楽かもしんないな
胸を張って歩けよ前を見て歩けよ
希望の光なんてなくったっていいじゃないか

 ここが物語的にはアンコの部分になる。「あんなちっぽけな物」とはもちろん携帯電話のこと。冒頭でそれを失ったことで、彼女は「つながり」を失くして不安を感じていた。ところが、あれこれと思いをめぐらせ川沿いを歩くうちに気がついたのは、別にケータイなんかなくても世界は何一つ変わらないということだった。
 「胸を張って歩けよ 前を見て歩けよ」というのも、下を向いて携帯の画面だけを見つめていた過去の自分を否定して、目の前に広がる世界と向き合うべきだという意味にとれる。
 そして「希望の光なんてなくったっていいじゃないか」という部分は、「僕らどこに向かおうか?」の答えなのだ。この女の子はおそらく道がどこまでも一本道だからこそ、歩いていくことが怖かったのだ。「その先に何があるのか?」「自分の求めているものがあるのか?」という恐怖。
 だけど彼女はそこに希望の光がなくてもいいと思った。とにかく進んでみないことには始まらないっしょ、とでも言うように。

<君は彼氏かもしれないし、自分自身かもしれない>

 ということで、いよいよ「君」の正体に迫る。といっても僕の結論は、「君」とは誰であってもいいということだ。

①「君」=彼氏パターン
 この歌を恋愛ソングとして真っ当に解釈した。「君」は女の子の彼氏で、女の子は「君」のことを大好きで、他の選択肢がないくらい好きなのだが、「君」との将来に不安を感じている。女の子はシャングリラ(自分の妄想の世界)で「君」を自分の望むような形に変えたいが、それが出来ない。なぜなら妄想の中で「君」が自分に思い通りの態度を取ることを考えれば考えるほど空しいから。だから彼氏は、夢の中でさえ上手く笑ってくれないし、でもその方がいいみたいな屈折した思いがある。
 女の子は携帯を川に落とした(あるいは意図的に捨てた)ことで、彼氏との関係への悩みをメリーゴーランドみたいにグルグルさせるけど、結局歩いているうちに自己解決する。恋愛なんてなるようにしかならねーか、こんなマイナス志向な私だけど、あなたに愛されることを今日も願うわと。

②「君」=自分パターン
 この歌は実存的な不安、つまり「私って何のために生きてるの?」「私が生まれてきたことには何か特別の意味があるはず」「でもそうだとするなら、私ってどうしてこんなに凡庸なの」みたいな、思春期の人が大抵経験する悩みについて歌ったものである。私はそんな自分自身をいわば俯瞰的な視点から見つめ直しているのだ。
 このテーマは先に紹介した「風吹けば恋」の冒頭部分でも触れられている。自分は特別でいたいと望んでいるのに、学校内の友人に合わせたり、マジョリティ側につくことで安らぎを得てしまうことへの違和感だ。とすれば、携帯電話を川に落とすのは、そうした他者とのつながりを断ち切ることで、自分とはいったい何者なのか問い直すことになる。ちなみにサカナクションの「アイデンティティ」という名曲も、これと全く同じテーマを歌っていて結論も同じようなところに着地する。


 つまり学校(あるいは職場)というコミュニティの縛りから解放された「私」は、この道をまっすぐ歩けばそれでいいじゃないかと考えるようになるのだ。まさに「風吹けば恋」の歌詞の「他はどうあれ私は私」だ。

この先の道に光がなくとも、大切なのは自分自身の道を歩むことであり、そこに他者がとやかく言うこと(携帯電話)は介在させない、その決意なのだ。
 とすると、サビのシャングリラ は不器用な自分を応援するのは自分自身なんだ、という自己肯定のおまじないなんだと思う。意地っ張りで、うまく笑えない(=周りに合わせられない)、そんな自分のことも自分は好きだよ、今のままで大丈夫だよあたし、そう語りかけているのだ。

③君=それ以外の大切な人パターン
 特に解説しない。理屈は①と②と同じことだ。

<自分が進むのはこの道でいいんだよね?と確認する歌>

 まとめると、この「シャングリラ 」という曲は内省的で実存的で、ゆえに哲学的だ。「君」が誰であってもいいというのは、もちろんこの物語が普遍的なものだから。恋人との未来について悩むのも、自分の将来について不安に感じるのも本質は同じことだ。

 僕は高橋さんがこの詞を書いたのは、バンドという安定しない職業で食っていく道を選ぶことへの恐怖と、でもやっぱりこの道しかないんだという気持ちがあったんだと推測する。しかるに「君」は自分自身であり、バンドメンバーでもあり、大切な人全てでもあるのだ。
 変拍子だからというのもあり、決してノリノリな曲じゃないのにライブでは絶対盛り上がる曲。それは、いびつだからこそ「シャングリラ 」のおまじないが耳に残るからではないだろうか。セラピーのような曲なので、僕は辛いことがあった時に聴きたくなる。

 さて本当はもっと他の曲も考察したかったが、思った以上に長くなってしまったので次回に持ち越す。次回は客観的な情景描写だけで、男女の別れを美しく切り取った福岡さんの作詞曲「染まるよ」を深読みしようと思う。


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