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『ブレードランナー2049』 (2017年) 映画評


※この文書は2017年に書いたものです。(ネタバレ有り)

<あらすじ>

2049年、LA市警のブレードランナー“K”(ライアン・ゴズリング)はある事件の捜査中に、人間と人造人間《レプリカント》の社会を、そして自らのアイデンティティを崩壊させかねないある事実を知る。Kがたどり着いた、その謎を暴く鍵となる男とは、かつて優秀なブレードランナーとして活躍し、30年間行方不明になっていたデッカード(ハリソン・フォード)だった。デッカードが命を懸けて守り続けてきた秘密---世界の秩序を崩壊させ、人類存亡にかかわる がいま明かされようとしている。

【①ワクワクした公開までの流れ】

 昨年の10月頃に「ブレードランナー」の続編が製作されていると聞いた時に、大きな衝撃を受けました。正直「スター・ウォーズ」の続編が決まった時並みのビッグ・ニュースだと思いましたし、この時点で「最後のジェダイ」以上に2017年最も楽しみな映画になりました。それから1年間に渡り、映画館では段階的にトレイラー(予告映像)が公開されていきました。

 まずは前作のテーマ曲にあわせて、ライアン・ゴスリングが砂漠みたいなところを歩いているビジュアル・イメージが先行公開されました。これにまず多くの人がびっくりしたはずです。

「ブレードランナー」といえば常に「夜の都市」が舞台で、そこは大抵「雨」が降っていて、「高層ビル」の足下にある「汚い繁華街」を他民族が行き交う「ごみごみ」したものだからです。そしてそのビジュアル・イメージは、「攻殻機動隊」とか「ファイナル・ファンタジー」などに多大な影響を与えました。

 ところが、トレイラーの映像はまるで核戦争後の荒廃した世界を連想させます。「マッドマックス2」や「猿の惑星」のように。まるで「007 スカイフォール」みたいな芸術的で美しいタッチの映像だなーと思っていたら、同じ撮影監督のロジャー・ディーキンズでした笑。

この人は「プリズナーズ」や「ボーダー・ライン」でもドゥニ・ヴィルヌーヴと組んでいます。無人のホテルのような場所にライアン・ゴスリングが進んでいくと、なんとハリソン・フォード演じる年老いたデッカードがいる…という30秒程度の短い予告。これを今年だけでもう何回観たことか笑。

その後夏ぐらいからトレイラーの尺が増えて解禁される情報量が増えていきました。どうやら、ライアン・ゴスリングはブレードランナーらしいとか、上司がロビン・ライトだとか、ジャレッド・レトが前作のタイレルのようにレプリカントを造っているなど。

そして前作のビジュアル・イメージをちゃんと再現した都市もきちんと出てきました。が、これだけでは相変わらず意味不明です笑。予告編で強調されるのはライアン・ゴスリング演じる主人公Kが世界を変える重大な秘密を握っている存在だということ。何だかそれだけ聞くとジブリっぽい感じですとにかく期待が高まるばかり。前作を2回観て予習バッチリの万全の状態で望みました。

キャナルシティのユナイテッドシネマでは4DX上映の回は満席になっていました。僕が観た2Dの回も結構たくさんのお客さんが入っていて、その年齢層は40代が中心。隣りの席の夫婦はどうやら旦那さんの方が「ブレードランナー」のファンらしく、適宜奥さんに解説していました。

普通なら「上映中は静かにして欲しい」タイプの僕ですが、この熱量を感じながら「2049」を観れたのは幸運な映画体験だったと思います。

【②「メッセージ」は「ブレードランナー」と同じ哲学】 

ということで、いよいよここから映画の内容に踏み込んで行きます。結論から先にいえば「2049」はドゥニ・ヴィルヌーヴが監督したことが非常に良い方向に流れたと思います。

「ブレードランナー」の続編を作るという、非常に高いハードルを越える作品だったと個人的には思います。今年公開されたヴィルヌーヴの「メッセージ」は正直、今年のベスト映画なんじゃないかってくらいメチャクチャ好きで特にラストでボロボロ泣きました。

詳しくは言いませんが、「メッセージ」ではエイミー・アダムス演じる母親がある苦渋の選択をします。それは、とても悲しく・報われないものです。しかし、その決断は観ている人に勇気を与えます。

「俺/私みたいな凡庸な人間に生きている意味なんてあるのだろうか…?」

という永遠の悩みに対して、

「いや、ある!どんな人にも必ず生きる意味はあるんだ!」

ということを力強く打ち出してくれる。しかもそれは単なるおためごかしではないです。「正直なところ運命は決まっている。それを変えることはできません」ということをはっきりと明示した上で、「でもその運命に逆らうこと自体、闘うこと自体が大切なんだ」と説く映画だと思いました。

 「ブレードランナー」の哲学は「メッセージ」と全く同じです。ロイ・バッティは創造主である人間のタイレルを殺し、最後までデッカードと闘います。そして今際の時にこれ以上なく「生」を実感し、涙を流す。

彼の死は無駄だったのでしょうか?否、それがデッカードを突き動かし、レイチェルとの逃避行につながるのです。そこに明るい未来が無くとも、デッカードはあえてイバラの道を選ぶ。そうすることで初めて彼が人間らしさを取り戻して幕を閉じるのです。

 もう1つ共通しているのが、「メッセージ」も「ブレードランナー」もSF映画ではあっても、スペクタクル映画ではないということです。「スター・ウォーズ」や「スター・トレック」のような血湧き肉踊るようなアクション活劇ではない。むしろ心に沁み入るような感情のドラマです。

SFの世界観に息をのませつつ、しっかりと人間の微細な感情の揺れ動きを描けなければならない。そう考えると、フィルモグラフィーを見ても、ヴィルヌーヴ以上に適任な監督はいなかったかもしれません。


【③聖書の引用とKのキャラクター】

 実際「2049」を見ると今回も根幹の哲学というのは全く同じです。むしろそこがより分かりやすくなった感がある。「ブレードランナー」の時は、運命に逆らうヒーローが、デッカードではなくロイ・バッティだったので、主人公のはずのデッカードが中々の畜生でした。

今回はKがレプリカントなのにレプリカントを殺すブレードランナーだという設定を見ても明らかですが、デッカードとロイ・バッティを足したキャラクターになっています。レプリカント側に救世主が生まれたので、その子どもを殺さなければならないというのはキリストを恐れたヘロデ大王をイメージしていると思います。子どもを妊娠出来ないはずのレイチェルが子どもを産むというのは、処女のまま妊娠した聖母マリアを重ねているのではないでしょうか。

そして映画の中で、Kは次々と受難にあいます。冒頭から彼が迫害されているというイメージが打ち込まれて行きます。決して人間にはなれないKは、しかしレプリカント側からも嫌われています。人間にもレプリカントにも、どちらにもアイデンティティがない存在です。

彼が唯一心を開いているのはホログラムの人工知能のジョイという女の子。これはかなり病的です。「her」という映画でsiriに恋をしてしまう男の話がありましたが、正にそれです。Kは実在する人間を愛せないんです。それを天下のイケメン俳優ライアン・ゴスリングがやっていることも凄いですね。

【④Kとジョイの切な過ぎる愛】 

僕が「2049」で一番好きなのは、Kとジョイの恋愛パートです。先ほど病んでいるといったばかりですが、「実在しないもの・偽モノが現実を超えていく」というのは前作「ブレードランナー」の大きなテーマの1つだったわけです。ジョイにはしっかりと感情があります。初めて外に出て、雨を見た彼女は感動して涙を流します。(ここは前作のロイ・バッティへのオマージュ)

 しかし彼女には肉体がない。そこで娼婦を呼んで、彼女の体に重なることでKとセックスするのですが、ここは本当に切ないです。だって自分が愛する男を他の女に抱かせるわけですから。「鬼龍院花子の生涯」の岩下志麻みたいな世界。事が終わった後に娼婦に「あなたの仕事は終わったんだから早く出てって」という時のジョイの表情にも本当にグッときます。

 しかしジョイとの恋愛は唐突に終わりを迎えます。ラヴによってジョイのデータが入った端末がぶち壊されてしまいます。家でゲーム中に、お母さんの掃除機がハード本体にぶつかってバグっちゃった時みたいな笑。

それでお母さんに逆ギレされて「ゲームばっかりやってないで、いい加減勉強しなさい!」と怒られるのに似てます。

「いつまでも引きこもってエロゲーやってないで働けこのニートが!」

と言うのは簡単ですが、言われた方の絶望といったら…

 しかもこの後に街に戻ったKに巨大なジョイのホログラムが話しかけるシーンがあるのですが、この時のジョイは全裸で青いカツラをつけています。

ジョイ(悦び)という名前から分かるように、彼女は完全に性処理用の製品。始めてKの前にジョイが姿を現すシーンでも、瞬時にコスプレしてレストランの店員になったりセクシーなドレスを着ます。

つまりジョイはVRのAVなんです。ところがKは彼女をそうは扱わない。話をしたりドライブデートをしたりする。彼女の「心」を愛しているのです。それがこの巨大なジョイとの対峙のシーンで分かると、それまでの彼女とのエピソードがより切なく胸を打つのです。

 エロゲーでもAVでもなんでもいいです、2次元しか愛せない人達は世間から「気持ち悪い」と一蹴されます。ところがジョイのようにほとんど人間と変わらない存在だったらこんなにもKに感情移入してしまうー私たちが「現実」「にせ物」と線引きしている境界を「ブレードランナー」の世界は超えていきます。それによって考えさせらます。

「現実」とは一体何か?と

 Kとジョイの話は、老いたデッカードの選択にもつながっていきます。ジャレッド・レト演じるウォレスにレイチェルそっくりのレプリカントを用意させられるデッカード。しかし彼は「彼女の瞳はグリーンだった」といい、このそっくりなレイチェルを拒絶します。全く同じ姿・形をしていても、別のものではダメなんです。それはKにとってのジョイも同じです。じゃあその境界線はどこにあるのでしょうか?「2049」でも、そうした問いかけが観客に突きつけられます。


【⑤ラストで降る雪の意味とは】

 Kの物語は途中から「運命の子」の両親のデッカードとレイチェルを探す旅になっていきます。それは自分が「運命の子」だと信じていたからなのですが、残念なことに映画終盤で運命の子は自分ではなく隔離された研究室に閉じ込められたアナ博士だと知ります。

 しかしそれでも自分の命と引き換えに彼女を守ることで、自らの生を全うしようとするのです。この展開もそっくりな映画はいっぱいあります。例えば「ターミネーター」がそうでした。「救世主」となる子どものために主人公が命を犠牲にする。それから「マッドマックス 怒りのデスロード」のニコラス・ホルトが演じたニュークスというキャラもそうです。彼は余命があと少ししかないという点でもレプリカントのような立ち位置でした。

 「2049」は神話のように主人公Kが次々と受難を受けていく。特に「ジョイとの別れ」と「自分が運命の子ではなかったことを知る」というのは、彼にもはや生きている意味はあるのだろうか?と思わせてしまうほど大きなダメージになる。しかしKは最後にデッカードと娘のアナ博士を立ち会わせるところまで、使命を全うする。それはヴィルヌーヴ監督が「メッセージ」でも大切にしたテーマに結びつきます。

「運命は決まっているかもしれないけど、その中で僕たち/私たちは意味を見出して生きねばならない」ということです。 ラストでKの頭上から降るのは雪です。「ブレードランナー」の世界で常に降る雨は酸性雨で異常気象のせいで生まれたものです。穀物は不作で、食べ物は全て遺伝子操作で作られています。

ラスベガスでは(恐らくレプリカントの反乱の影響で)核爆発があり、街は汚染されて無人になりました。 だからここで降る雪は、はっきりと酸性雨と対比されるものです。「フランダースの犬」のラストでパトラッシュとネロを迎え入れたあの雪と同じ「神聖」で「純粋」なものの象徴です。それは神の祝福なのでしょうか。


【⑥瞳の使い方と音楽】

 さて「ブレードランナー」といえば?いろんなものが思いつきますね。「2つでじゅうぶんですよ!」とかね。今作も「LAPD ロサンゼルス市警」というロゴが規制線に貼られていたりして、日本語はふんだんに出てきました。あと「折り紙」もありますよね。

その中でも特筆したいのは巧みな「瞳」の使い方です。 82年の「ブレードランナー」は燃えるロサンゼルスの街を見つめる「瞳」から始まります。その後もレプリカントを検査するテストで瞳孔の動きがチェックされたり、ロイ・バッティがタイレルの目を潰して彼を殺害したりと、「瞳」というのが映画全体の鍵となる道具になっています。

 今回は前作以上にその「瞳」の使い方が上手い。例えばラブが目から涙を流すシーンが何回かあります。彼女に感情があることが示されます。それから、ジョイと娼婦が体を同期させるシーンで、髪型は娼婦のものだけど「瞳」はジョイのものだったりする。

それと前述したようにデッカードは「レイチェルは瞳がグリーンだった」と言って、コピーのレイチェルにはなびかない。作品内で「瞳」というのはその人の「人間性」を象徴しています。ところが、盲目のウォレスというキャラクターにはそれがない。代わりにドローンのカメラを義眼にしています。それがそのままウォレスのキャラクターを説明している。

こうやって映像で物語をきちんと語れるところに監督の力量がはっきりと表れています。やっぱヴィルヌーヴすげぇなと笑。 一方で僕が少し残念だったのが音楽の使い方です。エルヴィスとかシナトラとかは別にいいんですが劇盤がハンス・ジマー(クリストファー・ノーラン作品などでおなじみの作曲家。とにかく重低音を多用して劇場をブワーンとさせたがる)で、これがあまり合っていないように思いました。

元々は音楽はヨハン・ハンソンが予定されていたらしく、「メッセージ」をご覧になった方なら分かると思うんですが、こっちの方が絶対「ブレードランナー」っぽいよ!とか思ってしまいそこだけが少し残念でしたね。

(※追記:ヨハン・ヨハンソンは2018年2月に48歳の若さでこの世を去りました。死因は不明とのこと。本作の音楽を担当しなかったこととの直接的な因果関係は分かりませんが、心からご冥福をお祈りします)

 しかし、皆さんちょっと考えてみて下さい。「2049」はKの物語としては一応の決着はついてはいますが、その後ウォレスたちがどうなるのか、人類とレプリカントの戦争が起きるのか、など相当数のサブストーリーが積み残されたところで終わってしまっています。これまだ続編作れますよね?笑。

もっとも北米の興行収入が悪いらしく、続編を作るのは難しいかもしれませんが… 「2049」にしても「エイリアン:コヴェナント」にしても、リドリー・スコットが今年蘇らせたものは面白いし、もっと続いて欲しいと個人的には思っているんですが…やっぱり聖書だの絵画だの小難しいもの散りばめすぎちゃってるのがいけないんですかね?とにかく「2049」のさらにその先にも期待したい見事な1本でした。




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