おとなが苦労話をするのは、それが楽しい思い出だから

おとなが苦労話をするのは、それが楽しい思い出だからです。

およそカネで買えるような享楽に、心の底から満足に浸れるようなものはありません。

そりゃ1日や1週間くらいなら、そういうことを楽しいと感じるかもしれません。でもモノを所有することから得られる満足は、持続しません。

たとえばアメリカではヨットを所有することは裕福層のひとつのゴールですが、「ヨットを保有していて嬉しい瞬間が2回ある。それはヨットを買った日と、それを売った日だ」と言われます。

ヨットを買った日、心がうきうきするのは当然ですが、そういう気持ちは、あっと言う間に薄れます。

一方、ヨットは維持にいろいろ手間や経費がかかります。つまり「お荷物」と化すのです。だから自分のヨットを転売できた日は、心の荷が下りて、うれしいというわけ。

最近流行の、「モノを買うから体験へ」というトレンドに関しても、同様のことが当てはまります。セレブなホテルに泊まるとか、秘境に旅するとか、そういう体験型の消費も、それがカネで買えるような享楽である限り、あなたの人生の「宝」となり、永遠に輝きを失わない良い思い出にはなりません。

もしそういうカネで買えるモノや体験が、自分の人生のハイライトなのであれば、あなたの人生は、とっても精神的に貧しいものだったでしょうし、この世にあなたが存在しようがしまいが、どうでもいいような、つまんない人生だったに違いありません。

苦労を経たうえで獲得する充実こそが、本当に痛快な体験だということは、昔から文学のテーマとして鉄板ネタとなっています。

一例としてトルストイの『戦争と平和』では、主人公の私生児ピエールが莫大な遺産を相続し、のっけから絢爛たる生活に耽溺します。しかし彼がハッピーだったかといえば、むしろ逆で、みじめそのもの。

そこでピエールは、ひょんな行きがかりから決闘する羽目に陥る、ふとしたことからフリーメーソンに入る、やじうま的好奇心からナポレオン軍とロシア軍が大激突したボロディーノの戦いに駆けつける……という具合に、おっちょこちょいの「自分探し」の旅を延々とやるわけです。

挙句の果てナポレオンの軍隊に捉えられ、餓死直前まで行き、そこで同じく捕虜だった農奴プラトン・カタラーエフに人生の何たるかを教えられるわけです。

つまり人生は旅路であり、何かを掴むまで試行錯誤や苦心惨憺している時期こそが、あとで振り返ってみると一番楽しく、懐かしいわけで、成功してから、ないしはリッチになってから味わえる享楽など、実はぜんぜん感興のかけらもないのです。

僕自身、アメリカに来て以降、ウォール街で仕事して、経済的には満ち足りていたし、米国では投資銀行の社会的ステータスが高いので周囲から羨望のまなざしで見られました。しかしそれが痛快な良い思い出になったかといえば、べつにそんなものどうでもいいという程度の感興しか湧かないんですね。

むしろ自分にとって本当に心ゆくまで楽しんだ経験は、ナッパ服着てアラビアの砂漠の工事現場で悪戦苦闘した思い出や、バングラデシュの河川を下るバージで出勤する際、シラミに喰われながら『戦争の犬たち』を読み耽った体験などです。

つまりおとなが苦労話を語っているときは、「人生の楽しさ」を語っているのです。

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