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2019~2020年旅順旅行(2)

 旅順博物館から南下し、海岸に出ました。日露戦争時に日本軍はここらあたりに二百三高地の山越しに砲弾の雨嵐を降らせたのかもしれません。
 海岸を歩いていると「旧関東州庁」の建物が見えてきます。中の庭が荒れ放題でした。地球の〇き方の写真ではそんなふうには見えないのですが。で、荒れ具合を眺めていたら、中から管理人なのか庭師なのかわからない正体不明の男がのっそりと出てきました。冬眠中だったのでしょうか。

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 再び海岸から離れ、割と区画整理された住宅街の登り坂を進むと、ラストエンペラーこと愛新覚羅溥儀の旅順での邸宅にたどり着きます。
 紫禁城を追放され、天津の租界で紫禁城から持ち出した財宝を「切り売り」する生活を余儀なくされる中、乾隆帝や西太后の陵墓を略奪される事件がおきたこともあって、溥儀は中華民国に対する憤りとともに次第に清朝復辟を望むようになり、そこで日本による満州国建国の動きに乗っかったわけですが、関東軍の動き庇護のもと天津を脱出して旅順のヤマトホテルに留まり、のちに皇后婉容も川島芳子によって護送されてきます。詳しいことはわかりませんが、きっとここはそのあとの旅順での住まいなのでしょう。
 ここは人が住んでいる気配がありませんが、建物の中にいる2匹の犬がやたら吠えてきます。あと「康特拉琴柯旧居」との案内板がありますが、康特拉琴柯とはコンドラチェンコのことで、コンドラチェンコというと、日露戦争時の旅順攻防戦におけるロシア側の猛将のことですが、ちょっと結びつきません。旅順での彼の邸宅だったのでしょうか。いろいろ調べてみましたがわかりません。

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 旅順港を眺めながら坂道を下っていきますと、左手にはおそらく半ば使われていない一戸建ての民家が道路に沿って並んで建っています。ハルビンで見かけるよう、レンガ造りの明治日本風にサンタが侵入してきそうな煙突のついた大陸風とでもいうべきアレンジを加えた建物が並んでいます。現地には説明の類が一切ありませんが、調べてみるとここは日本統治時代は高崎町と呼ばれたところのようで、やはり日本人の山の手の高級住宅街だったのでしょう。

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 また海岸にたどり着いて東側に進む前にちょこっと西側にある革命モニュメントへ足を運びます。「勝利塔」なるこのブツは、誰が何に対して勝利したのか主語が不明ですが、そこは思想改造を受けて「正しい歴史認識」を身に着ければおのずとわかるだろうということにしておきます。間違えても「八路軍は国民党軍の傘に隠れてサボタージュしてたんじゃないのか」などと言ってはいけません。収容所での再教育が待ってます。

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 ところで…、人間って寒いとトイレが近くなるものですよね。で、観光しているときのトイレって、たかがトイレ、されどトイレですよね(なんのこっちゃ)。旅順市街も、特に海岸あたりは数年前までは外国人立ち入り制限がかかっていたのですが、今では観光に力を入れ始めたのか、こんな公衆トイレもあちこちにできていました。しかしながら寒いシーズンオフの今はどこも閉鎖中。中国旅行は我慢だ!

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 海岸にそって東へ進むと旅順駅にたどり着きます。ロシア風の駅舎が特徴的とはいうものの、今は旅客扱いはしていません。旅順が徐々に外国人にも開放しだした頃も、ここはすぐ目の前が軍港なので実質上立ち入り禁止のようなものでした。もしかしたら今も本当は制限区域なのかもしれませんが。
 間近で見るとあまりよく保存されているふうではありません。屋根の上にある「旅順駅」の「旅」の文字が欠けています。名鉄のローカル線の終着駅でもここまでではありません。

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 トイレを探しながら海岸部を歩いていると公園らしきものが見えてきました。案内には旅順軍港とありますが、公園です。ウィキ博士によりますと、依然としてここは外国人立入制限があるところのようですが、構造的に立ち入りを制限するようなものは一切なく、軍港だからといって日本人得意の「忖度」をさせるようなモノもありません。ついでに言うと使えるトイレもありません。ここも無慈悲にも「冬季停用」の張り紙。
 ここからは、間近とまでは言いませんが、日露戦争時の広瀬中佐による旅順港閉塞作戦が行われた湾口がよく見えます。では旅順要塞攻防戦の聖地巡礼中の皆さん(私一人だけですが)、大きな声でご一緒に。
「杉野はいずこ!」

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 最後に、旅順市街の三大ハイライトの残り一つ(勝手に認定。あと二つは旅順博物館、旅順日露刑務所旧址)、白玉山塔へ行こうとします。ここは海岸のすぐそばにある小高い丘で、さらにその頂上には、日本統治時代には東郷平八郎と乃木希典の発案により立てられた戦没者追悼施設である「表忠塔」と呼ばれた塔があります。それは地図から想像するにおそらくそこからは旅順軍港が丸見えというすんばらしいブツのようなので、これは大日本帝国防衛のためにはぜひとも行かねばと思っていましたが入り口が見つからず、大連に戻って満鉄旧址陳列館に行くにはそろそろ戻った方がよい時間になりつつあるので、行くのをあきらめて市内バスに乗って旅順バスターミナルに行くと、なんとそこに白玉山塔への入り口がありました。ここへはまた大連に行ったときに訪れることにしますが、次回は行きはクソどもが駅で待ち構えている地下鉄は使わないつもりです。といってもバスでも結局は同じかも入れませんが。中国旅行は我慢だ!
 大連行きの郊外バスは、1時間半かかって大連駅北側の広場前に到着しました。座れるのはよいのですが途中の周水子空港周辺が渋滞気味でじれったいです。
 で、満鉄旧址陳列館に着いたら、開いていません!添付の5枚目の写真の張り紙が見当たらないので、もしかしたら普通に開館し始めたのかもと思いましたが、ハズレでした。またもや積み残しです。今回はいったい何を見に大連まで行ってきたのやら。

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 旅順潜入は中途半端な結果に終わってしまいましたが、私には大連に来たら必ず行わなければならないミッションがあります。天津街にある、ウイグル人のシシカバブの店でヒツジを食すというのがそれです。念のためにあえて指摘しておきますが、シシカバブを食べるのが目的であり、それ以上でもそれ以下でもありません。黒づくめのシェフの姿がどう見てもIS(イスラミックステイト)の活動家のようだというのは気のせいです。ここで私と彼は、周囲の人民には理解できないトルコ語とウイグル語で秘密の会話をします。(例)ウチ タネ ヴェリン(3本ちょうだい)。
※写真は4年前のものですが、今と変わりはありません。

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 大連は寒いですからねー。どうやってよじ登ったんだろ。

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 2019年のフィナーレを、平均的日本人らしく(私に対する一個人の印象です。物言いは認めません)、ホテルで紅白歌合戦観戦。猪木祭りを見ていた方がおもしろかった。ってもうやっていないって。
(写真は2017年の紅白です。35億)

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 中山広場です。ここに地下鉄の駅があるので、ここから地下鉄に乗って空港へ移動します。ここには旧大連ヤマトホテルである大連賓館など、最もノスタルジックな大連を感じることができるところの一つで、私のお気に入りのところですが、寒いのでこれで日本に帰ります。
 ところで、うかつなことですが、来年のカレンダーを見ると、今年は閏年のため、今年の年末年始は9連休とならないことにいまさらながら気付きました。しまった、やはり嫁を質にいれてでも資金を確保してイランに行くべきだった!完。

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