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サンセバスティアン要塞、オラニエ要塞

 ガーナには海岸沿いにヨーロッパ人が15世紀後半〜17世紀ごろに建てた要塞が
点在している。これらの要塞はその地に滞在する彼らを保護し、交易を行う拠点として建てられたもので、ヨーロッパ人は奴隷・金・象などを買い求めると同時に、彼らの国で作られた銅・青銅・鏡などの加工品を販売する目的もあった。
 これらは植民地支配が行われる以前の時代のもので、大西洋三角資易の一角を担う悪名高き奴隷貿易において重要な役割を果たした遺跡である。奴隷貿易で新大陸へ輸送された黒人の数は推定4000万人とも言われており、砂糖や綿花などのプランテーション農園や鉱山での過酷な労働に従事させられた。大西洋三角貿易については川北稔先生の名著『砂糖の世界史』をぜひ読んでほしい。

サンセバスティアン要塞
 それらの要塞の一つサンセバスティアン要塞(Ft. San Sebastián)は、私の住むシャマの町の海岸近く、市場のど真ん中にある。この要塞は1523年、ポルトガル人によって建てられ、奴隷やその他の交易品の取引所として機能した。
実は、最初に西アフリカにやってきたヨーロッパ人であるポルトガル人の一行
は、1471年シャマの海岸に上隆したという。その証として海岸に十字架を建てたという話が残っており、シャマの海岸には建て直したであろう十字架が建っている。そして、1482年にシャマから東に行ったところにあるケープコーストにエルミナ城として知られる要塞を建てた後に、シャマにも要塞を築いたのだ。そうして1642年にオランダ西インド会社がこの要塞を奪取し、イギリスが覇権を握った19世紀にはオランダからイギリスへと割譲された。

サンセバスティアン要塞 前面、階段が異常に急


海岸に見える十字架、本当にあの場所に立っていたかは謎。


 サンセバスティアン要塞はそれほど大きな要塞ではなく、管理する人間が居住できる人数は100人にも満たないと思った。奴隷を収納するスペースだと案内してもらった部屋には、ここに200人の男が詰め込まれるとかいう話を聞かされるが、真偽のほどは定かではない。要塞の地下には隠し通路のようなものがあるらしく、地面の上から覗ける様になっているが、実際は井戸かもしれないと疑っている。要塞らしく錆びついた大砲が4門地面に転がって野ざらしにされている。2階部分があり、床が木で造られている部分はメンテナンスが行き届いておらず、歩いていると次の瞬間には足が抜けそうで恐ろしい。小部屋がいくつかあるのだが、現在の生活用品が無造作に置かれており、物置の代わりにされている。
 50セディで案内してもらったが、この金額はほとんどぼったくりに近い。しかしガーナ国内の有名な観光地の外国人価格はどこも一律でこの金額らしい。

中庭
野ざらしの大砲

オラニエ要塞
 オラニエ要塞(Fort. Oranje)はシャマから西へ行ったところにあるセコンディ港を見下ろす小高い丘の上に立っている。オランダ人が1642年に建てた宿舎がその後改築されて要塞になったとのこと。オランダ語読みだとOranjeだからオラニエだと思うが、ガーナの人たちは英語話者なのでOrangeと言わないと通じないと思われる。


 現在は灯台が増設されていたり、アパート代わりにされているらしく幾人かの住人が居住している。17世紀の要塞に住むというのはめったにないことだと思う。アパートなので誰も入場料を請求してこなかった。
 セコンディ港は漁港と軍港が合わさっており、要塞の上からは大変に眺めが良かった。軍港の先には発電を行うための船と石油採掘用のプラットフォームのようなものが見れた。

漁港
軍港
発電船と海上プラットフォーム

 後から知った話では、この要塞に隣接してイギリスが同時期にセントジョージ要塞を建てていたとのこと。ネットでも情報が乏しく、次回訪問する機会があったら調べてみたい。

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