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長崎と軍艦島

いつの頃からか書店の店頭に廃墟を写した写真集が積まれたりする様になった。ノスタルジーからだろうか。店頭に並ぶのだから結構売れているのだろう。ある意味平和な時代を享受している証しなんだとも思う。
長崎の野母崎沖にある軍艦島の存在を知ったのは学生時代だった。夏休みが終わって秋の授業が始まった頃予備校時代からの友人が旅行先の写真を見せてくれた。モデルガンを脇に抱え迷彩服を来た数人のバックにはコンクリートの廃墟が広がっていた。無人島に「戦争ごっこ」をしに行ったのだという。無人島にどうやって行ったの?うん、現地の漁師の人に頼んで舟を出して貰った。帰りはあらかじめ3日後に迎えに来て貰う様にお願いしたんだ。3日間の食料を買い出しして持って行ったんだけど量を間違えて少なすぎた。お腹すいて島にいる間大変だった。そんな話を友人はしてくれた。
その楽しそうな「戦争ごっこ」はともかくコンクリートの廃墟の風景に見入ってしまった。今は誰もいないその廃墟にもかつてたくさんの人が生活していた。床に散らばった建物のかけらやゴミや塵にその生活の跡が色濃く残っていた。写真からそのかつての生活の匂いが漂ってくるかのようだった。今は人の気配を消し去り長い間無人の空間となっている。にも関わらずつい今し方まで人が住み生活していた。そう感じたのは無人でありながら長年風雨にさらされ壊れた建物の内部が雑然としてまるで夜逃げ同然の雰囲気を醸し出していたからなのだろう。よくこんな島に3日も過ごしたなぁ。夜なんかどうやって時間を潰したんだ?そんな会話をしたと思う。
無人島の名前「軍艦島」もそういったノスタルジーに一役買っている。野母崎から見える遠景の無人島は確かに軍艦に見える。鋭い舳先。端から端まで直線的な防波堤。その防波堤をデッキに見立てると上のビル群の角ばった影は船の居住区や何やらに見えなくもない。
軍艦島は通称で正式には端島という。そんなことを知ったのは多分就職とともに長崎に移ってからのこと。長崎に移り住んだ当初は軍艦島は立ち入り禁止だった。特別許可でも取ったのだろうか。その軍艦島をテーマにした写真集を見たのはだいぶ経ってからのことだ。そうしていつの間にか観光地へと変わっていった。ノスタルジーをノスタルジーとして残すのは触れないことだ。近づかないことだ。と、思っていたが結局その軍艦島ツアーに自分も行く羽目になった。何度か長崎に遊びに来た友人家族が今度は軍艦島を見たいという。そのツアーのチケットをついでに自分の分まで一緒に取っていてくれた。春先のこと。少し波が高く上陸が危ぶまれていたが無事に陸に上がることが出来た。想像していた様な建物内部の見学ツアールートではなく比較的外側のほんの一部の見学コースだったがコンクリートの廃墟の劣化を考えれば仕方がない。ノスタルジーは現実の全くの文字通りの「廃墟」と化したが想像以上に楽しい思い出となった。

蛇足だが軍艦島の誕生は現在の廃墟を含め偶然ではない。江戸時代までの国内唯一の貿易港としての「出島」は開国によってその地位を失った。明治以降は石炭が「出島」に変わって長崎の地位を保ったのである。軍艦島を作った石炭の役目が時代の流れとともに石油に変わった。それとともに軍艦島の役目も終えたのである。その後時間とともに軍艦島は廃墟と化した。


江戸時代の出島。明治時代から昭和中期までの軍艦島。これに対し昭和中期から平成までは造船やプラントが長崎を支えたと言えるのではないか。令和の時代。長崎は何に置き換わって行くのだろう。その答えが見えるのはいつのことだろう。


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