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語学学習は目的によって勉強方法が違うのか?

外国語は難しい。英語は難しい。英語を勉強する、習得するのはなにか筋力トレーニングに似ている。どちらも継続は力なり。サボるとレベルが落ちる。続けるとそれなりに実力がつく。
明治時代の異才、総理大臣にまでなり二・二六事件で凶弾に倒れた高橋是清。その自伝の中で英語を極めるために行き着いたのが漢語の勉強だった。英語を勉強するために漢語を勉強する?どういうことか。ずっと考えていた。
思うに外国語の習得、勉強にもあるレベルがあるのだと思う。最初はコミュニケーションのため。直接的にはその外国語を話したり書いたりする相手がいてそれを理解するために勉強する。コミュニケーションが目的である限りその対象が英語なら漢語を勉強する必要はない。例えば同じアルファベットの言語なら共通の語源があったりして参考になったり比較出来たりするかも知れないがそういう可能性は低い。ならばコミュニケーションではない別の目的で英語を勉強していたのではないだろうか。思いついたのが思考だ。語学学習を通じて考えるということではないだろうか。人間は言葉を通じて思考する。英語を通じて思考していくとその先に漢語があったのではないだろうか。少し仮定が飛躍しているかも知れない。色々考えるためにはその過程において語彙が必要になってくる。思考に必要な語彙を覚えたり集めたりしていくうちに更に必要な語彙を漢語に求めたのではないだろうか。
高橋是清は北米にも南米にも滞在している。合衆国やアルゼンチン。当時の日本人としては並外れた英語の達人だっただろうことは容易に想像出来る。帰国後も眠気と格闘するために手に火傷させてでも勉強した。(ひょっとしたら渡航前だったかも)相当の努力家でもあった。その達人が英語の先に行き着いたのが漢語なのである。英語に相当する語彙を漢語に求めたのではないか。一流の人の考えを理解するには同じレベルにならないと正しく理解出来ないかも知れない。が、今の時点で自分が想像出来るもののキーワードは思考である。


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